【NPB】選手異動球団一覧 2024-25年
プロ野球の人事異動情報を掲載
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NPB
このページでは、野球殿堂を紹介しています。
No. | 年度 | 氏名 | かな氏名 | 種別 | 顕彰文 |
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1 | 1959年 | 正力 松太郎 | しょうりき まつたろう | 特別表彰 | 日米野球を成功させ巨人を創設 読売新聞社社長として昭和6・9年に米大リーグ選抜軍を招聘。9年の全日本軍を主体に大日本東京野球倶楽部「東京巨人軍」を創設し、11年には日本職業野球連盟発足へと導いた。戦後も(株)日本野球連盟取締役会長として草創期プロ球界を強力にリードした。民間TV放送の先駆者でもあり、プロ野球新時代を築いた。1885~1969年 |
2 | 1959年 | 平岡 ひろし | ひらおか ひろし | 特別表彰 | 我国初の野球チームを結成 明治4年アメリカへ留学し、機関車両・機械類製造技術のほかベースボールを修得し同9年に帰国した。工部省鉄道局技師となり新橋停車場構内に仮運動場を設け、用具や規則書を輸入しユニホームを作る等我国初の本格的野球チーム“アスレチックス”新橋倶楽部を組織した。日本の野球の祖。1856~1934年 |
3 | 1959年 | 青井 鉞男 | あおい よきお | 特別表彰 | 米チームを破った一高投手 1896年第一高等学校野球部投手として初めて外人チームに勝ち、よく後進を指導した。初めて野球規則を邦訳し野球近代化の途を開いた。1872~1937年 |
4 | 1959年 | 安部 磯雄 | あべ いそお | 特別表彰 | 学生野球の父 1901年早稲田大学野球部を創設し次いで第一回渡米を敢行す。以来一貫して学生野球の育成に努め「学生野球の父」と仰がれる。1865~1949年 |
5 | 1959年 | 橋戸 信 | はしど しん | 特別表彰 | 都市対抗野球大会を創設 1905年早稲田大学野球部主将として渡米。新技術を導入し「最近野球術」を著した。また全国中等学校野球大会及び全国都市対抗野球大会の実現を企晝推進した。1879~1936年 |
6 | 1959年 | 押川 清 | おしかわ きよし | 特別表彰 | 初のプロチーム「日本運動協会」を創設 早稲田大学野球部草創期の選手。後に球界の長老として敬愛される。1920年日本運動協会を結成。プロ野球発生の先駆者となる。1881~1944年 |
7 | 1959年 | 久慈 次郎 | くじ じろう | 特別表彰 | 早大・函館オーシャンの名捕手 早稲田大学在学中より名捕手として知られ、社会人野球の育成に努めた。1939年球禍に会い札幌球場で42才の生涯を終えた。1898~1939年 |
8 | 1959年 | 沢村 栄治 | さわむら えいじ | 特別表彰 | 初期プロ野球界不滅の大投手 東京ジャイアンツ発足当時の投手。再度の渡米に活躍。1937年日本野球連盟最初の最高殊勲選手に簡抜され、その名声は創生期の象徴として球史を飾る。1917~1944年 |
9 | 1959年 | 小野 三千麿 | おの みちまろ | 特別表彰 | 対大リーグ初の勝利投手 慶應義塾、三田倶楽部、大阪毎日野球団の投手として活躍。1922年大リーガーを迎えこれを破り日本人初の勝利投手となる。後年運動記者として令名を博した。1897~1956年 |
10 | 1960年 | ヴィクトル・ スタルヒン |
びぃくとる すたるひん | 競技者表彰 | プロ野球初の300勝投手 ロシア生まれ。北海道旭川中学で野球選手となる。強速球とカーブをもって巨人軍(東京ジャイアンツ)の第一次黄金時代の主力投手として活躍した。高橋ユニオンズに在職中日本最初の300勝投手となる。1916~1957年 |
11 | 1960年 | 飛田 忠順 | とびた ちゅうじゅん | 特別表彰 | 穂州の名で健筆をふるった早大名監督 早稲田大学監督として黄金時代を作り終始学生野球の発展に力をつくし、健筆を用いて野球の鍛練的精神を高唱した。1886~1965年 |
12 | 1960年 | 河野 安通志 | こうの あつし | 特別表彰 | 早大初渡米後ワインドアップ投法を導入 1905年早稲田大学投手として渡米、近代的投球術の始祖となる。技術規則に精通。職業野球の先覚者であり球界の指導に生涯をさゝげた。1884~1946年 |
13 | 1960年 | 桜井 彌一郎 | さくらい やいちろう | 特別表彰 | 第1回早慶戦勝利投手 慶應義塾大学の投手兼強打者として初期早慶試合にチームの中心となり、三田クラブを率いて野球界の元老として敬愛された。1883~1958年 |
14 | 1962年 | 池田 豊 | いけだ ゆたか | 競技者表彰 | 学生・プロの名審判 早稲田大学の名内野手として大正六・七年極東選手権に優勝。卒業後は近代審判技術の体得につとめ、昭和十二年から二十三年まで日本野球連盟審判長として、その向上をはかり明快な審判ぶりを発揮した。1893~1952年 |
15 | 1962年 | 市岡 忠男 | いちおか ただお | 特別表彰 | 職業野球連盟初代理事長 早稲田大学の主将・捕手として名声高く、後に監督を勤め、昭和六年に行われた日米野球によってわが国に職業野球の機運を作り、昭和十一年日本職業野球連盟創立とともに初代理事長として活躍し、今日の隆盛の道を拓いた功労者である。1891~1964年 |
16 | 1963年 | 中島 治康 | なかじま はるやす | 競技者表彰 | プロ野球初の三冠王 松本商業。早大を経て東京巨人軍に入り4番打者として豪快な打力を発揮し昭和13年春秋を通算し、打率3割5分3厘、本塁打11本、打点63で最初の三冠王となり、打撃王の名声を高めた。1909~1987年 |
17 | 1964年 | 若林 忠志 | わかばやし ただし | 競技者表彰 | 七色の変化球を投げた頭脳派投手 頭脳的投球と変化球により投手としての名声を法政大学および阪神タイガースの優勝によって高め、投手生活20有余年プロ野球人として熱愛の生涯を捧げた。1908~1965年 |
18 | 1964年 | 宮原 清 | みやはら きよし | 特別表彰 | 社会人野球協会初代会長 明治三十六年早慶野球開始当時の慶大主将。同野球部の発展に盡力し、昭和二十四年初代日本社会人野球協会長として社会人野球の名声を世界に高めた。1882~1963年 |
19 | 1965年 | 川上 哲治 | かわかみ てつはる | 競技者表彰 | 打撃の神様、V9達成の巨人監督 打撃王として努力精進。十八年間の通算打率3割1分3厘。豪快な打法から放たれる弾丸ライナーは賞賛の的となる。最高殊勲選手三回。首位打者五回(東京巨人軍一塁手)。1920~ |
20 | 1965年 | 鶴岡 一人 | つるおか かずと | 競技者表彰 | 南海黄金時代を築いた名監督 法政大学、南海を通じて攻守両全の内野人として独特の風格を発揮し、通算打率2割9分5厘、最高殊勲選手3回、南海監督として名声を高めた。1916~2000年 |
21 | 1965年 | 井上 登 | いのうえ のぼり | 特別表彰 | 第2代コミッショナー プロ野球創生時からこれに強い愛着心を持ち、側面から熱心に指導した。最高裁判事退任後、昭和31年から6年間コミッショナーに就任し、明快な裁定を下した。1885~1971年 |
22 | 1965年 | 宮武 三郎 | みやたけ さぶろう | 特別表彰 | 投打に活躍した学生野球のヒーロー 打力の人として東京六大学黄金時代に慶応の全盛を誇り、神宮球場場外本塁打を放つ。剛速球をもって投手をつとめ、卒業後東京クラブ、阪急の主力打者であった。1907~1956年 |
23 | 1965年 | 景浦 将 | かげうら まさる | 特別表彰 | 猛打タイガースの強打者 松山商業、立教を経て職業野球創設期に「投」の沢村に対照して、「打」の景浦と並称された長距離打者であった。強肩を利して投手をもつとめ、豪放な性格で人気を集めた。1915~1945年 |
24 | 1966年 | 守山 恒太郎 | もりやま つねたろう | 特別表彰 | 一高の名サウスポー 1902年第一高等学校第二次黄金時代の左投手として横浜外人を完封。猛練習にはげみ攻守ともに名声を博した。1880~1912年 |
25 | 1967年 | 腰本 寿 | こしもと ひさし | 特別表彰 | 慶大黄金時代の名監督 慶応、大阪毎日球団で内野手、好打者。大正十五年慶大野球部監督となり、慶大黄金時代に七度優勝。早大の飛田監督とともに名監督といわれ渡米4回。選手を大成し、和製マグローと賞讃された。1894~1935年 |
26 | 1968年 | 鈴木 惣太郎 | すずき そうたろう | 特別表彰 | プロ野球草創期日米野球の交流に尽力 青年の頃対米貿易のため渡米中、アメリカ野球の全般にわたり実地に研究を重ね、その豊富な知識によりわが国球界を指導した。正力松太郎氏の大リーグ招聘に努力。更に日本プロ野球創立に盡し長年プロ野球界の要職に歴任した。特に終戦後、進駐軍と折衝して甲子園、西宮、後楽園の軍接収の早期解除に大きな功績を残した。1890~1982年 |
27 | 1968年 | 田辺 宗英 | たなべ むねひで | 特別表彰 | 後楽園スタヂアム第4代社長 小林一三の弟。昭和11年プロ野球創立に引つヾき兄らと共に都心に後楽園スタヂアムを建設し、翌年後楽園野球クラブ(イーグルス)の結成に盡した。その生涯を野球拳闘その他広く一般体育の発展のために捧げた功績は顕著である。1881~1957年 |
28 | 1968年 | 小林 一三 | こばやし いちぞう | 特別表彰 | 宝塚運動協会・阪急球団結成 三井銀行を振出しに実業界に入り、昭和2年阪神急行電鉄社長に就任。多年に渡り政財界に活躍し、大きな足跡を残した。大正2年大阪豊中に野球場を設置。大正13年わが国最初のプロ野球芝浦野球協会を引つぎ、宝塚野球協会を結成。昭和11年阪急野球団(阪急ブレーブス)を創立。翌年5月、西宮球場を建設し、わが球界に大いに貢献した。1873~1957年 |
29 | 1969年 | 苅田 久徳 | かりた ひさのり | 競技者表彰 | 華麗な守備の名二塁手 法政大学では名遊撃手として、若林投手らと同大学の黄金時代を築いた。昭和9年巨人軍結成に参加。翌年東京セネタースへ移り二塁手として活躍した。走打にも優れた天分を示したが、その堅実 華麗な守備は抜群で観衆を陶酔させた。選手引退後は、監督、コーチ、審判員を歴任し、斯界に尽した。1911~2001年 |
30 | 1969年 | 三宅 大輔 | みやけ だいすけ | 特別表彰 | 巨人、阪急の初代監督 慶応大学、三田クラブ、東京クラブ等で、名選手として活躍し、復活早慶戦当時の慶大監督、また六大学初の専属審判等、当時球界の指導的役割をつとめた。我国プロ野球誕生に参画し、巨人軍初代監督、続いて阪急の監督に就任した。戦后も各球団の技術指導につくし、野球技に関する多くの書物を著した。1893~1978年 |
31 | 1969年 | 田部 武雄 | たべ たけお | 特別表彰 | 攻走守揃った天才的プレーヤー 少年時代から天才的名選手とうたわれ、広陵中学、明治大学で活躍。巨人軍第一回アメリカ遠征に加わり、小躯ながら天与のバネと俊足を利して105試合に110盗塁と云う快記録を樹立、沢村、苅田らと共にアメリカで万丈の気を吐いた。又大学時代、捕手以外の全ポジションをこなす万能選手振りを発揮したことは有名である。1906~1945年 |
32 | 1969年 | 森岡 二朗 | もりおか じろう | 特別表彰 | 日本野球連盟初代会長 昭和11年、プロ野球創立に参画し、大東京軍副会長として洲崎球場建設に尽力した。16年日本野球連盟初代会長となり、戦時下のきびしい悪条件の下で、プロ野球最高指導者として敏腕を奮い、全球団の運営と秩序維持に尽瘁し、昭和19年プロ野球休止に至るまで軍首脳部と折衝をつづけてその存続につくした。1886~1950年 |
33 | 1969年 | 島田 善介 | しまだ ぜんすけ | 特別表彰 | 慶大・三田倶楽部名捕手 慶応大学時代、名捕手として、対早大、一高戦、海外遠征等で活躍。その無類の強肩による投球は当時の野球界の呼物であった。又大正11年秋、日本チームが初めて米大リーグチームを破った時、小野投手の好投をたすけて見事なホームランを放って、球史に輝かしい一頁を飾った。日本学生野球協会の役員やゴルフ界の世話役としてスポーツ界の発展に寄与した。1888~1955年 |
34 | 1969年 | 有馬 頼寧 | ありま よりやす | 特別表彰 | 東京セネタースを結成 貴族院議員、農林大臣、その他政界の指導者としての活躍は有名であるが、文化スポーツにおける造けい深く、昭和10年プロ野球東京セネタースを創立し、西武鉄道と提携して上井草球場を建設した。日本野球連盟、日本野球報国会等の相談役を歴任。日本プロ野球発生当初から戦時中止に至るまで終始その育成発展のため献身した。1884~1957年 |
35 | 1970年 | 天知 俊一 | あまち しゅんいち | 競技者表彰 | 中日監督でシリーズ制覇 明大時代名捕手として鳴らし、のち東京六大学専属審判となり、早慶天覧試合を始め数多くの大試合の主審をつとめ名審判とうたわれた。戦後招かれて中日ドラゴンズの監督に就任。勝れた技術指導と情味豊かな統率力で同球団の黄金時代を築き、昭和29年には日本シリーズの制覇を獲得した。1903~1976年 |
36 | 1970年 | 二出川 延明 | にでがわ のぶあき | 競技者表彰 | 初代パ・リーグ審判部長 俊足好打の名外野手として明大、全大阪等で活躍。昭和9年巨人軍結成に加わり渡米。昭和11年日本職業野球連盟結成後、審判員に転向。爾来27年間、名アムパイアとしてプロ野球の発展につくした。その機敏な行動、明快なジャッジは定評があり、数々の逸話とともにファンの人気を集めた。1901~1989年 |
37 | 1970年 | 田村 駒治郎 | たむら こまじろう | 特別表彰 | 松竹ロビンスオーナー 田村駒株式会社々長として関西財界第一線に活躍した。スポーツに関心深く、特に野球を熱愛してプロ野球および社会人野球に参画し、私財を投じて、これらを育成した。昭和12年、プロ野球創生期にライオン取締役、昭和16年以降オーナーとして直接球団経営に当り、17年の永きにわたり常に率先してプロ野球発展に貢献した。1904~1961年 |
38 | 1970年 | 直木 松太郎 | なおき まつたろう | 特別表彰 | 野球規則を本格的に翻訳出版 明治43年、アメリカの野球規則を翻訳出版。大正6年、日本最初の本格的な野球規則を完成した。また独自の野球記録法を考案して全国に普及しただけでなく、実戦セオリーを確立して、母校慶応チームにこれを徹底的にたたきこみ、当時来日して無敗を誇ったシカゴ大学に初めて土をつける等野球技の基礎づくりに大きな足跡を残した。1891~1947年 |
39 | 1970年 | 中馬 庚 | ちゅうま かのえ | 特別表彰 | ベースボールを「野球」と訳す 明治27年ベースボールを「野球」と最初に訳した人で、又同30年には野球研究書「野球」を著作。これは単行本で刊行された本邦最初の専門書で、我が国野球界の歴史的文献と言われている。一高時代は名二塁手。大学に進むやコーチ・監督として後輩を指導。明治草創時代の学生野球の育ての親と云われた。1870~1932年 |
40 | 1971年 | 小西 得郎 | こにし とくろう | 特別表彰 | 独特の話法で人気を博した名解説者 明治大学で八代目の主将をつとめ、卒業後は広く後輩を指導し、野球技術の向上に献身した。プロ野球創立以来、大東京、名古屋、松竹、大洋の各球団監督を歴任し、松竹ロビンス監督としてセ・リーグ初の優勝をもたらした。野球評論家としても一家をなし、特に実況放送を通じ独自の解説をもって全国のファンを啓発し、野球の隆昌に貢献した。1896~1977年 |
41 | 1971年 | 水野 利八 | みずの りはち | 特別表彰 | 用具の生産・改良に尽力 日露戦争から帰還して、わが国の将来にスポーツ普及の必要を痛感し、明治39年美津濃商店を創立。当時未開発のスポーツ用具の研究生産に没頭するとともに、率先して実業団や中学、高専の野球大会を主催して、今日の都市対抗野球や甲子園大会の先鞭をつける等、生涯をスポーツ振興に献身した。遺志により水野スポーツ振興財団が設立された。1884~1970年 |
42 | 1972年 | 石本 秀一 | いしもと しゅういち | 競技者表彰 | 広島カープ初代監督 大正初期、広島商業の投手として全国大会で活躍。同12年から母校の監督となり、卓抜した精神教育で選手を指導し、永らく同校に栄誉をもたらした。のちプロ野球界に入り阪神、金鯱、旧大洋、旧西鉄、太陽、広島の監督を歴任。また数球団のコーチをつとめた。多年に亘り球団の指導強化につくした功績は大きく、その門下から数多くの逸材が生れた。1897~1982年 |
43 | 1972年 | 中野 武二 | なかの たけじ | 特別表彰 | 審判の権威と信頼を確立 明治30年代一高の名二塁手で、その好守は、旅順要塞「老鉄山」にたとえられた。当時は選手が審判をつとめたが、その厳正明確な判定は高く評価され、野球審判官の権威を確立した。卒業後常に後輩を指導して、野球精神の真髄を宣揚し、又芝浦野球協会の設立を推進して野球場を建設するなど明治から大正にかけて野球界の指導者として活躍した。1884~1947年 |
44 | 1972年 | 太田 茂 | おおた しげる | 特別表彰 | 運動記者の草分け 明治36年に始った初期早慶戦を軍記物語式の名文で描写して以来、四州(志蹴)の筆名で書いた試合記事は読者の人気を独占した。又ながらく雑誌「運動界」の責任編集に任じ、鋭意野球の啓蒙に尽瘁し、生涯を野球批評のために貫き、文筆をもって学生スポーツの健全な発展に献身した。1881~1940年 |
45 | 1973年 | 内海 弘蔵 | うつみ こうぞう | 特別表彰 | 明大野球部長 国文学者。明治大学教授。明治43年野球部を創設。なが年その育成強化に献身して、同校の伝統を築いた。早慶戦の20年にわたる中断を憂い、大正14年率先調停に当って、遂にこれを復活せしめ、つヾいて東京六大学リーグの結成を推進し成功する等生涯を通じ野球の健全な発展に寄与した。1872~1935年 |
46 | 1973年 | 天野 貞祐 | あまの ていゆう | 特別表彰 | 学生野球協会第2代会長 カント哲学の権威で一高校長。文部大臣、日本育英会長などを歴任。少年時代から野球を熱愛し、50余年の教育生活で常にスポーツ精神の尊さとその実践の必要を説きつヾけた。安部磯雄についで第二代学生野球協会の会長となり、戦後学生野球の復興と秩序の確立に尽瘁し、学生野球憲章の制定、学生野球会館の創設など多くの業績を残した。1884~1980年 |
47 | 1973年 | 広瀬 謙三 | ひろせ けんぞう | 特別表彰 | スポーツ記録の第一人者 大正初年から運動記者となり、苦学力行してあらゆる競技に蘊奥を極めた。プロ野球創立後公式記録員となり、黙々と精進し、野球規則、記録集計の権威者となった。その抜群の記憶力と正確な判断力は、運動界で生き字引と尊敬されるに至った。名著「日本の野球史」はじめ貴重な文献を残した。1895~1970年 |
48 | 1974年 | 藤本 定義 | ふじもと さだよし | 競技者表彰 | 29年で6球団を指揮した名監督 松山商、早大の投手として活躍。又勝れた指導力で中等学校や実業団の強チームを育成した。昭和11年、巨人軍の監督となって同軍不動の地位を築き上げ、多くの俊英を育てて、プロ野球隆盛に貢献した。戦後も太陽、金星、大映、阪急、阪神各球団を指揮し、名実兼備の大監督とうたわれ、50年にわたって野球界につくした功績は誠に偉大である。1904~1981年 |
49 | 1974年 | 藤村 富美男 | ふじむら ふみお | 競技者表彰 | 猛打の初代ミスタータイガース 昭和初期呉港中学投手として名声を博し、夏の甲子園大会で優勝。タイガース結成当初入団し、のち内野手に転じ、長年にわたり一貫して同チームの主軸として活躍した。その熱烈な闘志と強打巧守はファンの絶大な人気を博して、プロ野球の繁栄に大きな役割を果した。1916~1992年 |
50 | 1974年 | 野田 誠三 | のだ せいぞう | 特別表彰 | 甲子園球場の設計工事責任者 阪神電鉄の社長、会長を歴任し実業界に多くの業績を残したが、長年にわたり野球に特別の情熱を傾けた。大正12年、甲子園球場の建設に当って設計責任者となり、努力と研究を重ね、遂に日本最初の近代的大野球場の完成に成功。爾来全野球界に飛躍的な発展をもたらした。高校野球の育成にもつとめ、またタイガースのオーナーとしてプロ野球の振興に尽した。1895~1978年 |
51 | 1976年 | 中上 英雄 | なかがみ ひでお | 競技者表彰 | プロ野球完全試合達成第一号 明治大学時代、六大学随一の剛球投手といわれ、リーグ優勝の立役者となる。昭和17年巨人軍に入団。たちまちエースとして頭角を現した。昭和19、21年監督を兼任し、戦中戦後の悪条件のもとでチームの主軸として活躍を続けた。のち自己の不調を克服して独自のスライダーを編み出し、プロ球界を風靡した。昭和25年6月、日本プロ野球最初の完全試合を達成。1918~1997年 |
52 | 1976年 | 小泉 信三 | こいずみ しんぞう | 特別表彰 | 学徒出陣壮行早慶戦実施 慶応義塾大学の塾長。東宮ご教育掛を歴任した偉大な教育者。庭球の名選手であると共に、野球はじめスポーツ全体に深い愛情と広い識見を持つスポーツマンであった。戦時下学生野球が続行不能に瀕したとき、毅然として非常時局におけるスポーツ精神の高揚を力説し、昭和18年秋万難を排して学徒壮行早慶戦を決行して、出陣学生らへのはなむけとした。戦後も学生野球の指導者としてその発展に献身した。1888~1966年 |
53 | 1977年 | 水原 茂 | みずはら しげる | 競技者表彰 | 巨人第2期黄金時代の名監督 高松商業在学中、投手、三塁手として再度の全国優勝に貢献し、のち慶応義塾に進んで、ますますその力を発揮し投・打・守に活躍した。特に堅実華麗な三塁守備は六大学の花といわれた。続いて巨人軍に参加し、長年にわたり名三塁手としてプロ野球に君臨した。戦後巨人の監督に就任して、同軍の黄金時代を築き、また東映、中日の監督を歴任してチームを強化育成。その大胆にして緻密な指導力は世上に高く評価された。1909~1982年 |
54 | 1977年 | 西沢 道夫 | にしざわ みちお | 競技者表彰 | 14歳でプロ入り、投打に活躍 名古屋軍のテスト生として14歳でプロ球界に入り、本格派投手に成長した。昭和17年大洋軍(旧)と闘い、相手チーム野口二郎と共に28回の延長試合に完投の記録を樹てた。戦後打撃に精進して有数のホームラン打者となり、その鮮やかな一塁守備とともにプロ野球を代表する名選手として人気を集めた。のち中日ドラゴンズの監督をつとめ、続いて野球評論家として活躍した。1921~1977年 |
55 | 1977年 | 森 茂雄 | もり しげお | 特別表彰 | 早大監督で9回優勝 松山商業、早稲田大学で強打の内野手とうたわれ、また大阪タイガース、イーグルスの初代監督として采配を揮った。戦後10余年間早大の監督をつとめ、六大学リーグ優勝9回の記録を樹立し、又多くの人材を育成した。その後、大洋球団社長、川崎球場社長を歴任。なが年にわたって野球界に多くの業績を残した。1906~1977年 |
56 | 1977年 | 西村 幸生 | にしむら ゆきお | 特別表彰 | 草創期のタイガースを支えたエース 関西大学野球部黄金時代のエースであり、東京六大学チームを連破し万丈の気を吐いた。大阪タイガースに入団。主戦投手として年度優勝の立役者となり、特に沢村投手との対決では多くの名勝負を生んで当時の野球ファンを魅了した。わずか3年間のプロ野球生活であったが、大きな業績と共に強い印象をのこした。1910~1945年 |
57 | 1978年 | 松木 謙治郎 | まつき けんじろう | 競技者表彰 | 初代タイガース主将、猛打で沢村と対決 敦賀商業から明治大学に進み、不断の練習と不屈の闘志で六大学リーグ屈指の強打者となった。大連実業団を経て昭和11年大阪タイガースの結成に参加。主将、一塁手、先頭打者としてチームの主動力となり「打倒沢村」の宿願を果して、昭和12、13年度の黄金時代を築いた。戦後には阪神、大映、東映等の監督を歴任。親分肌の人柄と卓越した指導力は選手の信望を集め、多くの俊英を育てて球界に貢献した。1909~1986年 |
58 | 1978年 | 浜崎 真二 | はまざき しんじ | 競技者表彰 | 48歳で投げた小さな大投手 神戸商業、慶応大学、満洲クラブを通じて、常に投打の主軸となって活躍を続けた。特に昭和2年秋の早慶戦完封勝利。41才で満倶のエースをつとめて全国制覇した昭和16年の神宮大会などの好投は有名で、身長150センチの小躯ながら小気味よい切味で、長年球界の桧舞台に君臨した名投手である。戦後、阪急、高橋、国鉄等プロ球団の監督を勤め、引退後は評論家として率直な批評や苦言を呈して「球界のご意見番」と評価された。1901~1981年 |
59 | 1978年 | 伊丹 安広 | いたみ やすひろ | 特別表彰 | 早大の頭脳的名捕手 佐賀中学から早稲田大学に進み、攻守兼備の名捕手とうたわれ、卒業後も東京クラブ、六大学の審判等で活躍した。昭和15年から母校早大の監督となり、戦時下の学生野球存続に尽し、戦後には学生野球・社会人野球の振興につとめた後、明治神宮外苑長として多くの困難と障害を克服して、野球場をはじめスポーツ施設の改修拡充を行って、学生野球、プロ野球の共存共栄を実現したほか、野球界全体の発展に著しい功績をのこした。1904~1977年 |
60 | 1978年 | 吉原 正喜 | よしはら まさき | 特別表彰 | 巨人第1期黄金時代の強肩捕手 熊本工業の捕手で主将をつとめ、甲子園の全国大会や秋の神宮大会で輝かしい成績を残した。昭和13年巨人軍に加入。直ちに正捕手に抜擢されて、スタルヒン、沢村らの女房役をつとめ、弱冠ながら能くその責を果した。強肩・俊足・攻守に勝れ、特に闘志あふれるプレーはチームを引締め、ファンの人気を集めた。前後4年の活躍であったが、その間しばしば最高殊勲選手にも選ばれ、創成期のプロ野球で忘れがたい名捕手である。1919~1944年 |
61 | 1978年 | 岡田 源三郎 | おかだ げんざぶろう | 特別表彰 | 全ポジションを守った明大万能選手 少年時代からスポーツ競技に秀で、明治大学では捕手を始め全守備位置をこなす天才ぶりを発揮した。大正12年同大学の監督となり、独特の養成法で多くの名選手を育成して黄金時代を築いた。金鯱軍の初代監督としてプロ野球にも参与したが、大正・昭和を通じ、野球技術の指導に熱情を傾け、コーチとしての足跡は殆んど日本全土に及んだ。81才の全生涯を野球一筋に生き、斯界の発展向上に貢献した。1896~1977年 |
62 | 1979年 | 別所 毅彦 | べっしょ たけひこ | 競技者表彰 | 310勝をあげた南海、巨人のエース 滝川中学の剛球投手で有名。昭和17年秋プロ球団南海に入団したが、戦後大いにその天分を伸ばし、一リーグ時の南海再度の優勝の立役者となる。24年巨人に入団後ますます技倆円熟し、長年に亘り投手陣の主軸となって健闘。スタルヒンの生涯記録を抜いて通算310勝の大記録を樹立した。現役引退後もコーチ、監督を歴任し後進の育成、指導に献身した。1922~1999年 |
63 | 1979年 | 平沼 亮三 | ひらぬま りょうぞう | 特別表彰 | 東京六大学野球連盟第2代会長 明治、大正、昭和を通じ、スポーツの育成に熱情を注ぎ、各種球技団体の会長を歴任し、広く「アマチュアスポーツの父」と尊敬された。 明治25年慶応義塾野球部創設時の初代幹事をつとめ、又三塁手として活躍。同大学野球部の長い伝統の基礎を作った。 昭和7年から東京六大学野球連盟第二代会長となり、非常時下における学生野球の運営に尽すいした。1879~1959年 |
64 | 1979年 | 谷口 五郎 | たにぐち ごろう | 特別表彰 | 大正時代の早大エース 大正9年秋早稲田大学に入学。飛田監督の指導を受けて、心技とも格段の進境をとげ、球界屈指の大投手となって同大学野球部の黄金時代を築いた。三田・稲門戦では三田の名投手小野との一騎討で数々の名勝負を生み、球史に不朽の一頁を残した。卒業後は大連実業団の柱石となって長く満洲球界に貢献。戦後には社会人野球やプロ球界で後進の指導につとめた。1901~1980年 |
65 | 1980年 | 大下 弘 | おおした ひろし | 競技者表彰 | 「青バット」の天才打者 昭和20年秋プロ野球復活と共に新球団セネタースに入り、東西対抗に初出場。たちまち猛打を揮って注目を集めた。翌21年戦前の記録を大きく更新して本塁打王となり、その後も華々しい活躍を続けて、川上哲治と共に大打者としての象徴的存在となった。同27年西鉄に移り、同チーム最盛期の主軸となる。現役引退後は阪急、東映、大洋のコーチ、監督を歴任。また少年野球の育成にも情熱を傾けた。1922~1979年 |
66 | 1980年 | 小鶴 誠 | こづる まこと | 競技者表彰 | シーズン51本の本塁打王 昭和17年、プロ野球名古屋軍に加入。強打者として頭角を現わしたが、戦後大いにその真価を発揮した。同24年大映で首位打者を獲得。翌25年松竹に移って51本の日本記録で本塁打王、打点王となり最高殊勲選手に選ばれた。その打撃フォームと強打振りは米大打者ジョー・ディマジオに擬せられ、長らくファンを楽しませた。その後、広島、国鉄、阪神等で活躍。後進の指導に努めた。1922~2003年 |
67 | 1980年 | 千葉 茂 | ちば しげる | 特別表彰 | “猛牛”といわれた巨人名二塁手 松山商業時代夏の甲子園大会で優勝。昭和13年春巨人軍に入団。爾来二塁手三番打者で健斗し、戦前の同軍黄金時代の主戦力となる。戦後もチームの主軸となって活躍を続け、名二塁手として不動の地位を築いた。終始チーム全体の昂揚を念じ、堅実無比な守備と有効適切の強打によって、長期間にわたり同軍安泰のために大いに貢献した。のち近鉄バファローズの監督をつとめ、引退後野球評論家となる。1919~2002年 |
68 | 1981年 | 飯田 徳治 | いいだ とくじ | 競技者表彰 | 1246試合連続出場 横浜浅野中学の投手四番打者で活躍。東鉄管理局の主力打者で昭和17年21年の都市対抗野球大会に出場、打撃賞を獲得した。22年南海ホークスに入団。攻守走三拍子揃った名一塁手としてチームの黄金時代の一翼を担った。特に23年秋から33年5月までの10年間に樹立した1246試合連続出場という前人未到の大記録は高く評価された。のち国鉄、サンケイ、南海のコーチ、監督をつとめ、誠実な人柄と指導で信望を集めた。1924~2000年 |
69 | 1981年 | 岩本 義行 | いわもと よしゆき | 競技者表彰 | 神主打法で1試合4ホーマー 昭和7年広陵中学から明治大学に入学。豪快なプレーで神宮球場の人気を集め、卒業後南海球団に加入。戦時下のプロ野球界で活躍した。戦後37歳でプロ野球に帰り咲いたが、持前の強打力は少しも衰えを見せず、松竹ロビンス優勝の立役者となり、また一試合4本塁打18塁打の快記録をつくった。29年30年の都市対抗野球大会に出場して健在ぶりを発揮し、31年から41年まで東映、近鉄の監督、コーチを歴任して後進の指導に尽くした。1912~2008年 |
70 | 1981年 | 佐伯 達夫 | さえき たつお | 特別表彰 | 第3代高野連会長 大正初期、市岡中学、早稲田大学の三塁手で活躍。豊中、鳴尾、甲子園と続いた全国中等学校野球大会(現高校野球大会)に大正9年以来役員として参画し、戦後高野連の創設に伴い副会長、会長を歴任。高校野球は教育の一環なりとの信念に徹してこれの指導育成に専念し、高野連今日の隆盛を築いた。また、大学、社会人野球の指導者としてその発展に貢献。87歳の生涯を通じて日本の野球界に残した功績は偉大である。1892~1980年 |
71 | 1981年 | 小川 正太郎 | おがわ しょうたろう | 特別表彰 | 社会人野球協会結成に貢献 和歌山中学時代、中学球界不世出の名投手といわれ、昭和4年早稲田大学に入学の年、宮武、水原らと対決した早慶の熱戦は特に有名である。病気のため現役は2年で終わったが、卒業後毎日新聞社に入社、野球評論で健筆を奮った。24年社会人野球協会設立に参画し、爾来18年間理事・事務局長として協会の整備、発展に専念した。また軟式野球連盟理事、日本野球規則委員をつとめ、アマチュア球界の発展に大いに貢献した。1910~1980年 |
72 | 1982年 | 鈴木 龍二 | すずき りゅうじ | 特別表彰 | セ会長を長年務め、球界の発展に尽力 昭和11年大東京軍の代表として日本職業野球連盟の結成に参画して以来、理事長、専務理事、日本野球連盟会長など要職を歴任。太平洋戦争下には軍の弾圧に屈せず、プロ野球の維持存続に力を尽した。戦後廃虚の中いち早く再建に着手。リーグを再興、やがて2リーグ制による隆盛の基礎を築いた。昭和27年セントラルリーグ会長に就任、今日に至る。昭和50年、プロ野球に尽瘁せる功により勲三等瑞宝章を贈られた。1896~1986年 |
73 | 1982年 | 外岡 茂十郎 | とのおか もじゅうろう | 特別表彰 | 学生野球憲章制定に尽力 法学博士、日本学士院賞受賞、民法家族法の大家で、また学生野球育成に特別の情熱を注いだ。昭和17年から早大野球部長となり、戦時下における大学野球の存続運営に尽瘁し、18年秋の学徒出陣壮行早慶戦を敢行した。戦後学生球界の要職を歴任し、日本学生野球協会設立をはじめ、学生野球憲章の制定、神宮球場の接収解除、海外との交流など多くの業績を以て学生野球全体の秩序確立とその隆昌に貢献した。1898~1986年 |
74 | 1983年 | 三原 脩 | みはら おさむ | 競技者表彰 | “魔術師”と称された名監督 魔術師と称された名監督。高松中から早大に進み、俊敏果敢なプレーでファンの注目を集めた。昭和9年全大阪の二塁手で都市対抗優勝の殊勲者となり、同年巨人軍入団。のち助監督を兼ねて草創期のプロ野球で活躍した。戦後巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトの監督を歴任、通算3248試合を指揮。その機略縦横の采配は至る所に風雲を巻き起こした。特に西鉄時代の三連覇、大洋の驚異的な日本制覇は有名である。49年には日本ハム球団社長に就任し、プロ野球の興隆につくした。1911~1984年 |
75 | 1983年 | 内村 祐之 | うちむら ゆうし | 特別表彰 | 第3代コミッショナー わが国精神医学の泰斗であると同時に偉大なスポーツマンであった。大正時代に一高、東大で不世出の名投手とうたわれた。その快腕は当時の野球界を席捲した。のち、学生野球の指導者として活躍、戦後はプロ野球最高委員となる。アメリカ野球に明るく、常に日本球界に真のスポーツマンシップを鼓吹。昭和37年にはコミッショナーに就任。球界の秩序維持に専念し、特に選手の教育と待遇の向上、組織内の整備、日米関係の調整など多くの功績を残した。1897~1980年 |
76 | 1984年 | 桐原 眞二 | きりはら しんじ | 特別表彰 | 早慶戦復活に尽力した慶大主将 大正8年慶応義塾大学に入学。卒業後大毎野球団(実業団)に入る。終始遊撃手として活躍その攻守走に勝れた天才的プレイは当代随一の名手とうたわれた。大正13年慶大主将当時、大学野球リーグ戦の変則状態を歎き、明治39年以来中断されていた早慶戦の早期復活を念じて孤軍奮闘し、遂に翌14年秋19年ぶりにその復活を実現し、現在の六大学リーグ戦制度の基盤をつくった。日本野球史上一時代を劃した功績である。1901~1945年 |
77 | 1985年 | 杉下 茂 | すぎした しげる | 競技者表彰 | フォークボールの大投手 帝京商、明大を経て昭和24年中日に入団。独自のフォークボールと快速球を駆使して目覚しい活躍を続け、プロ野球史に一時代を築いた。特に29年には最高殊勲選手を始め投手成績の各タイトルを独占する働きでチームにセ・リーグ初優勝を齎し、対西鉄の日本シリーズでも連投してその制覇の原動力となった事は驚異に価するものである。34年から中日、大毎、阪神、巨人のコーチ、監督を歴任した。1925~ |
78 | 1985年 | 白石 勝巳 | しらいし かつみ | 競技者表彰 | 巨人初期黄金時代の名遊撃手 広陵中学では強打の一塁手。昭和11年巨人軍に入団。猛練習の末、屈指の名遊撃手となり戦前の黄金時代を築いた。堅実無比のプレーは名人芸といわれ、特に逆シングルの妙技は戦前戦後を通じファンを魅了した。25年広島カープに移り攻守の主軸で活躍。監督に就任後もチームの強化育成に尽瘁して現在のカープ球団の基盤づくりに貢献した。43年から巨人軍のコーチとなり9連覇達成に寄与した。1918~2000年 |
79 | 1985年 | 荒巻 淳 | あらまき あつし | 競技者表彰 | パ・リーグ最初の100勝投手 大分経専時代、全国高専大会の決勝戦で奪三振23を記録。左腕からの快速球の威力は「日本の火の玉投手」と呼ばれた。昭和24年夏の都市対抗では星野組のエースで優勝。橋戸賞を獲得した。翌年毎日オリオンズに入団。たちまち最多勝26、防御率1位で新人王となり、同球団のパ・リーグ優勝、二リーグ制最初の日本シリーズ制覇に貢献した。その後も主力投手で活躍、昭和37年から阪急・ヤクルトのコーチを歴任、後進を育成した。1926~1971年 |
80 | 1985年 | 田中 勝雄 | たなか かつお | 特別表彰 | 早大で首位打者3度のスラッガー 大正7年、市岡中から早大に入学。強打・攻守の外野手として四大学(のち六大学)リーグで活躍した。特に350匁(1313g)のバットから放つ豪快な外野柵越の長打はファンの驚嘆の的となった。大正10年アメリカ遠征中、強打者ホーンスビーの指導を受けてますますその真価を発揮し、日本最初の本格的ホームラン打者と謳われるに至った。卒業後、オール大阪や早大監督、プロ野球朝日軍の役員をつとめ、球界の発展につくした。1898~1995年 |
81 | 1985年 | 山内 以九士 | やまのうち いくじ | 特別表彰 | 野球規則・記録の研究、整備に貢献 慶大在学時代、直木松太郎氏に師事して、ルールの研究に没頭。昭和15年に広瀬謙三氏と共同で「日本野球規則」を編纂した。また戦前戦後を通じてプロ野球規則委員、公式記録員として活躍を続け、創生時からの記録を整備して集計の基礎を確立したほか、ベースボール・レディ・レコナー(打率早見表)、ヤマウチ式スコアーブック、勝敗投手の細則等を作成するなど多くの業績を残して球界の隆盛発展に寄与した。1902~1972年 |
82 | 1986年 | 中河 美芳 | なかがわ みよし | 特別表彰 | 名物の守備で活躍した投手兼一塁手 鳥取一中、関大を経て昭和12年8月、イーグルス(黒鷲)に入団。左腕投手兼一塁手、しかも中心打者として活躍。特にどんな難球でもタコの吸盤のように吸い取る完璧なまでの一塁守備はプロ野球の名物になり、多くの野球ファンを球場に引き付けた。戦火に散ったためわずか5年間のプロ野球生活であったが人々に強い印象を残した。1920~1944年 |
83 | 1986年 | 松方 正雄 | まつかた まさお | 特別表彰 | タイガース初代会長 維新の元勲松方公爵の四男で、早くからアメリカで教育を受けた。ペンシルベニア大学では俊足の二塁手として活躍し、帰国後は関西財界の重鎮として多くの役員を歴任したが、昭和10年にタイガース初代会長に就任するや巨人に匹敵するチーム作りに専任し、名門タイガースの基礎を築いた。また日本職業野球連盟の初代副総裁として、草創期のプロ野球の発展に尽くした。1868~1942年 |
84 | 1987年 | 藤田 信男 | ふじた のぶお | 特別表彰 | 法大初優勝監督 法政大学名誉教授。大正11年法大入学、監督として昭和5年秋東京六大学リーグ戦に初優勝して以来昭和10年春まで四度優勝第一期黄金時代を築く。後、学生部長となり、一貫して母校野球部の強化に努めるとともに長きにわたって学生及びアマチュア球界の要職にあってその発展に尽すいし、野球技術向上のため国際交流にも力を入れるなど我国野球界全体の健全な発展のため今なお活躍を続けている。1903~1992年 |
85 | 1987年 | 山下 実 | やました みのる | 特別表彰 | 慶大黄金時代の強打者 第一神港商業時代完成したばかりの甲子園球場で大本塁打を放ち「怪物」の異名をとる。東京六大学全盛時代の昭和2年慶大に進学してますます打撃の真価を発揮。その抜群の長打力は多くのファンを魅了した。在学中完全優勝を含むリーグ優勝4回に大きく貢献。卒業後は大連満倶を経て阪急の結成に加わり一塁手監督としてプロ野球の人気高揚に尽くした。1907~1995年 |
86 | 1988年 | 長嶋 茂雄 | ながしま しげお | 競技者表彰 | “神宮の星”から”ミスタープロ野球”へ 六大学プロ野球を通じて史上最高の三塁手と讃えられる。立大では首位打者2回通算本塁打記録をも更新。昭和33年巨人軍に入ると本塁打、打点の2冠を獲得して新人王となる。V9の牽引力となり、好機をのがさぬ打撃とスピード感みなぎる守備でファンを魅了しつづけた。数々のタイトルに輝いて昭和49年に引退。51、52年に同軍監督としてリーグ優勝を果たす。1936~ |
87 | 1988年 | 別当 薫 | べつとう かおる | 競技者表彰 | 天性の好打者、4球団の監督歴任 甲陽中学の剛球投手として甲子園大会で活躍。慶大でも投手、外野手、4番打者で17年春のリーグ戦では首位打者となるなど六大学を代表する強打者であった。全大阪をへて超大型新人として23年阪神に入団。オープン戦の6ホーマーで人気沸騰。2年後には毎日へ移り本塁打、打点で2冠王となる。監督、コーチとしても多くの後進を育て、55、56年大洋球団代表を厂任した。1920~1999年 |
88 | 1988年 | 西本 幸雄 | にしもと ゆきお | 競技者表彰 | 監督歴20年、8度のパ・リーグ優勝 和歌山中学から昭和13年立大へ入学。一塁手主将として活躍。卒業後全京都を経て別府星野組に入団。監督兼任で第20回都市対抗に優勝。統率力にすぐれ、35年大毎球団監督に就任するやリーグ優勝で飾り、監督厂20年間で阪急近鉄を初優勝させるなど、不撓不屈の精神で8度のリーグ優勝を達成、闘将と呼ばれる。1920~ |
89 | 1988年 | 金田 正一 | かねだ まさいち | 競技者表彰 | 400勝、4490奪三振 昭和25年17才で新生国鉄スワローズに入団。早くから大黒柱として活躍しつぎつぎに投手記録をぬりかえて、球界に君臨する大投手となった。とくに対巨人 対長嶋に奮起しファンを歓喜させた。巨人に5年在籍。通算400勝、4490奪三振、14年連続20勝以上の前人未到の大記録を樹立した。49年にはロッテの監督として日本シリーズを制覇した。1933~ |
90 | 1988年 | 横沢 三郎 | よこざわ さぶろう | 特別表彰 | プロ野球草創期の名審判 巧手巧打の名二塁手として大正12年秋のリーグ戦で明大初優勝に貢献した。昭和4年制度化した東京六大学専属審判員を努め、その間東京クラブの二塁手として都市対抗にも出場4度の優勝を果たす。11年プロ野球東京セネタースの結成及び戦後の新生セネタースの誕生に尽力し監督となる。のちパ審判部長として選手権、オールスターに連続出場、名審判とたたえられる。1904~1995年 |
91 | 1988年 | 芥田 武夫 | あくた たけお | 特別表彰 | 早大の名外野手 早大飛田監督の精神野球で鍛練され名外野手とうたわれた。早慶戦が復活し、六大学リーグが発足した大正14年秋、首位打者を獲得。15年には主将を厂任した。満洲クラブをへて昭和8年スポーツ記者として時事新報に入社。10年朝日新聞社に移ってより戦後の困難な時期を通して甲子園大会の運営に尽力された。28年近鉄の監督に迎えられ5年間采配をふるい最下位脱出を果たし、のち同球団社長となる。1903~1987年 |
92 | 1988年 | 永田 雅一 | ながた まさいち | 特別表彰 | 東京球場をつくる 昭和23年プロ野球大映チームのオーナーとしてリーグに加盟すると、映画制作同様たちまち球団経営にも行動力を発揮し、24年には二リーグ分立の推進役を果たした。パ・リーグの人気高揚を願い、またフランチャイズ制の理想的な確立を求めて東京球場を建設するなど、球界の発展のため誠心誠意の情熱を注いだ。1906~1985年 |
93 | 1989年 | 島 秀之助 | しま ひでのすけ | 競技者表彰 | 初代セ・リーグ審判部長 攻守走揃った名外野手として、第一神港商業の黄金期を築き、法政昭和5年秋の初優勝。7年秋の優勝にいずれも盗塁王となり貢献。10年名古屋金鯱の結成に加わり選手兼任の監督となる。13年審判員となり、25年からセ・リーグ初代審判部長。37年まで現役をつとめる。名審判の誉高く55年まで審判部長の任にあり権威の確立に大きな業績を残す。34年6月25日初の天覧試合の球審をつとめた。長く野球規則委員として野球界に尽くす。1908~1995年 |
94 | 1989年 | 野村 克也 | のむら かつや | 競技者表彰 | 戦後初の三冠王捕手 京都峰山高校から南海のテストを受け昭和29年にプロ入りを果たす。捕手で4番の重責を担い、45年からは監督も兼任。巧みなリード あくなき研究心で48年にリーグ優勝を達成。53年にはロッテ、後西武へと移り55年に引退するまで捕手として闘志を燃やし不滅の3017(捕手で2921)試合出場記録を残した。捕手の三冠王、657本塁打(捕手で650)、は米大リーグにもない偉大な記録である。1935~ |
95 | 1989年 | 野口 二郎 | のぐち じろう | 競技者表彰 | 延長28回完投の鉄腕投手 中京商業の速球投手。昭和12年春の選抜準優勝。夏の大会優勝。翌13年春の選抜優勝は史上初の全4試合完封の快挙で飾る。東京セネタースへ入団の14年。33勝を上げ1塁手でも出場。以後内外野手をかねて33勝、25勝、40勝、25勝と超人的奮闘に”鉄腕”と称される。昭和17年には延長28回を完投。阪急に移って21年31試合連続安打達成。引退後も長年コーチとして活躍を続けた。1920~2007年 |
96 | 1989年 | 池田 恒雄 | いけだ つねお | 特別表彰 | 出版活動を通じ、野球界の発展に貢献 昭和6年、早大在学中より雑誌「野球界」の編集に携わり、12年に編集長となる。戦後21年ベースボールマガジン社を設立。出版を通して野球の発展に貢献するとともに、つねにフェアプレー精神をうったえた。後年オリンピック競技種目の出版を手がけ、東欧の各国と友好関係を築いた功により勲三等瑞宝章を授与さる。昭和61年にはソ連へ野球を紹介して新たな国際交流に尽力している。1911~2002年 |
97 | 1989年 | 伊達 正男 | だて まさお | 特別表彰 | 大リーグに挑んだ早大の鉄腕投手 市岡中学では春秋各2回甲子園へ出場。早大へ進学の昭和3年春季リーグ戦に捕手5番打者で新人初の首位打者(.469)を獲得。6年春季リーグ早慶戦には投手で出場史上初の3日連投による勝利を遂げ、同年と9年に来日の米大リーグチームをも畏怖せしめ、剛腕投手として名声を博した。卒業後はオール大阪チームに参加、9年都市対抗優勝、甲子園大会の審判員、選考委員、プロ野球阪急のコーチ等を歴任。1911~1992年 |
98 | 1990年 | 真田 重藏 | さなだ じゅうぞう | 競技者表彰 | ノーヒット・ノーラン2度達成 海草中学では捕手。のち三塁手で昭和14年夏の甲子園大会に優勝。投手としては15年夏の大会と同年から17年までの神宮大会を制し名投手といわれた。翌年朝日軍に入団。兵役から復帰後も剛速球とドロップは冴え25年に39勝を上げロビンスのセ・リーグ第一回優勝に貢献し沢村賞を獲得。阪神では2度目の無安打無得点試合を達成。後年、明星高校を率いて38年夏の選手権大会優勝を遂げた。1923~1994年 |
99 | 1990年 | 張本 勲 | はりもと いさお | 競技者表彰 | 広角打法で3085安打達成 幼年期の大火傷で右手に負った不自由を強靭な精神力で克服しプロ野球界の左の大打者となった。浪商時代から天性の素質を見出され 昭和34年東映フライヤーズに入団。同年新人王37年MVPを獲得。広角に放つ打撃で「安打製造機」の異名をとり首位打者7回の最多記録の他、数々の打撃記録をつくった。巨人に4年在籍後55年ロッテに移籍して達成した未曾有の3000本安打は球史に輝く。1940~ |
100 | 1990年 | 佐伯 勇 | さえき いさむ | 特別表彰 | 近鉄バファローズオーナー 三高、東京帝大から昭和2年現近畿日本鉄道株式会社に入社。専務取締役であった24年同社に発足した「プロ野球団設立委員会」委員長に就任。プロ野球は二リーグへと分立し新生近鉄パールス(のちバファローズ)は同年11月太平洋野球連盟に加入した。以来球団経営に腐心し創立30周年を初のリーグ優勝で飾り、球界最長の36年に及ぶオーナー在任中広い視野でプロ野球を支えた。1903~1989年 |
作成・2009/12/01
更新・2016/01/18