【NPB】選手異動球団一覧 2023-24年
プロ野球の人事異動情報を掲載
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このページでは、野球殿堂を紹介しています。
No. | 年度 | 氏名 | かな氏名 | 種別 | 顕彰文 |
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133 | 2001年 | 競技者表彰 | 根本 陸夫 | ねもと りくお | 西武黄金時代の基礎を築く 法政大学からノンプロを経て昭和27(1952)年近鉄に捕手として入団。実働年数は4年と短かったが昭和37(1962)年から近鉄、広島でコーチ、昭和43(1968)年から広島、クラウンライター、西武、ダイエーの4球団で監督を務めた。その手腕は、現場の指揮官からフロント入りしてさらに発揮された。西武、ダイエーでチームづくりの責任者として、幅広い人脈や行動力を駆使して基礎を築き、のちに訪れる黄金時代に導いた。1926~1999年 |
134 | 2001年 | 競技者表彰 | 小山 正明 | こやま まさあき | 抜群の制球力で歴代3位の320勝 昭和28(1953)年兵庫県高砂高校卒業後、阪神にテスト入団。右腕からの快速球と針の穴を通すと言われた抜群の制球力を武器に、阪神のエースとして活躍。東京オリオンズに移籍した翌年の昭和39(1964)年に、30勝し最多勝を獲得した。実働21年で歴代3位の320勝をはじめ、3159奪三振、防御率2.45を記録した。現役引退後は阪神、西武、ダイエーなどで9年にわたりコーチを務め、後進の育成に貢献した。1934~ |
135 | 2001年 | 特別表彰 | 武田 孟 | たけだ つとむ | 日米大学野球開催に尽力 昭和27(1952)年、明治大学教授のとき野球部長に就任、島岡吉郎監督と協力し一時代を築いた。昭和33(1958)年から39(1964)年まで全日本大学野球連盟会長。昭和39(1964)年明大総長就任と同時に第4代日本学生野球協会会長となり、学生野球の普及発展に尽力した。また、早くから野球の国際化に理解を示し、昭和47(1972)年には長年の懸案であった日米大学野球選手権大会を実現させた。学生時代、母校の校歌「白雲なびく・・・おお明治」の誕生にも奔走した。1896~1990年 |
136 | 2001年 | 特別表彰 | 長谷川 良平 | はせがわ りょうへい | 広島を支えた小さな大投手 ノンプロから昭和25(1950)年、広島カープ創立とともに入団。1年目に早くも15勝をし、以後8年連続2ケタ勝利をあげる。昭和30(1955)年には30勝し、最多勝を獲得。身長167cmの小柄ながら切れ味鋭いシュートを駆使して、「小さな大投手」と呼ばれ、エースとして長年にわたりチームを支えた。実働14年で197勝、1564奪三振、防御率2.65を記録した。昭和40(1965)年途中から3年間、広島の監督を務めた。1930~2006年 |
137 | 2002年 | 競技者表彰 | 山内 一弘 | やまうち かずひろ | 大毎ミサイル打線の中心打者 昭和27(1952)年、毎日に入団し、「打撃の職人」としてミサイル打線の中心打者で活躍。昭和35(1960)年には本塁打王と打点王の2冠を獲得し、MVPに選ばれた。昭和38(1963)年オフに小山正明選手との「世紀のトレード」で阪神に移籍し、昭和40(1965)年7月4日には当時プロ野球史上初の300本塁打を達成した。オールスターに16回出場して大活躍し、「オールスター男」と言われた。指導者としても評価が高く、引退後、巨人、阪神の打撃コーチをはじめ、ロッテ、中日では監督を務めた。1932~2009年 |
138 | 2002年 | 競技者表彰 | 鈴木 啓示 | すずき けいし | 近鉄一筋、歴代4位の317勝 昭和41(1966)年、ドラフト1期生として近鉄に入団。新人で10勝し、翌年からエースとして5年連続20勝以上の成績を残した。昭和43(1968)年と昭和46(1971)年にノーヒットノーランを達成。近鉄一筋の20年間に歴代4位の317勝、歴代1位の最多無四球試合78を達成。「草魂」の言葉を座右の銘として雑草のようにたくましく、輝かしい記録の数々を打ち立てた。最後の300勝投手と言われ、背番号1はパ・リーグで第1号の永久欠番となっている。1947~ |
139 | 2002年 | 競技者表彰 | 福本 豊 | ふくもと ゆたか | 攻走守三拍子そろった盗塁王 昭和44(1969)年、松下電器からドラフト7位で阪急に入団。2年目にレギュラーとなり、75盗塁で初めてタイトルを獲得。以来13年連続盗塁王となり「1億円の足」と言われた。昭和47(1972)年には106盗塁で日本記録を樹立してMVPに選ばれた。昭和58(1983)年6月3日にルー・ブロックの持つ当時の大リーグ記録、通算938盗塁を破った。走、攻、守三拍子そろった小さな大打者として、いずれも歴代1位の通算1065個の盗塁、449二塁打、115三塁打を記録した。1947~ |
140 | 2002年 | 競技者表彰 | 田宮 謙次郎 | たみや けんじろう | 15シーズンで打率3割以上7回 日本大学時代は昭和22(1947)年秋に首位打者となり投打で活躍。昭和24(1949)年阪神に入団し、昭和25(1950)年3月16日、国鉄戦で9回2死までパーフェクトに抑える快投を見せる。4年目に野手に転向し、昭和33(1958)年には首位打者を獲得した。昭和34(1959)年に10年選手制度の権利を行使して、大毎に移籍し「ミサイル打線」の一角を成す。昭和35(1960)年には長打力のある2番打者としてリーグ優勝に貢献した。実働15シーズンで7回打率3割以上を達成。1928~ |
141 | 2002年 | 特別表彰 | 中澤 不二雄 | なかざわ ふじお | パ・リーグ初代専任会長 明治大学時代から名遊撃手と言われ、大正2(1913)年マニラで開催された第1回極東オリンピックに出場し優勝した。卒業後、造船会社に就職したが野球が忘れられず、大正12(1923)年満鉄に移り、大連満洲倶楽部の監督兼選手として活躍し、昭和2(1927)年、第1回都市対抗野球大会に出場して優勝。戦後は野球評論や解説で活躍し、昭和34(1959)年2月パ・リーグの専任会長制度発足と同時に初代会長に就任した。同年6月昭和天皇陛下が御観戦された「天覧試合」ではご説明役を務めた。1892~1965年 |
142 | 2002年 | 特別表彰 | 生原 昭宏 (アイク生原) |
いくはら あきひろ | 日米野球交流の中心的役割を果たす 昭和40(1965)年、ドジャースのウォルター・オマリー会長と親交の深い鈴木惣太郎氏の紹介により単身渡米し、ドジャース傘下のスポーケンの用具係からアメリカの野球生活をスタートした。後にドジャースのオーナーに就任するピーター・オマリー氏とは長年行動をともにした間柄で、昭和57(1982)年からオーナーの補佐兼国際担当として活躍した。巨人・中日のベロビーチ・キャンプの実現、日米大学野球開催などプロ、アマを問わず幅広い日米野球交流の中心的役割を果した。野球留学生に親身な世話をするなど多くの野球人に慕われた。1937~1992年 |
143 | 2002年 | 特別表彰 (新世紀特別表彰) |
フランク・オドール | ふらんく おどーる | 日本の野球技術向上に尽力 昭和6(1931)年、大リーグ選抜チームの一員として来日して以来たびたび訪日、学生野球の指導をするなど日本野球の技術向上に貢献した。また、日本のプロ野球創設に協力し、大日本東京野球倶楽部(現在の東京読売巨人軍)の「ジャイアンツ」というニックネームの名付け親でもある。昭和24(1949)年、日本野球の復興期にサンフランシスコ・シールズを率いて来日、戦争で十数年間途絶えていた日米野球交流を復活させた。昭和26(1951)年にはシールズの春季キャンプに藤村、川上、小鶴、杉下氏を招待し、アメリカ野球を体験させた。昭和35(1960)年サンフランシスコ・ジャイアンツのコーチとして随行するなど、永年にわたり日本の野球発展に尽力、「日米の懸け橋」として大きな役割を果たした。1897~1969年 |
144 | 2002年 | 特別表彰 (新世紀特別表彰) |
正岡 子規 | まさおか しき | 野球を愛した明治の俳人・歌人 明治17(1884)年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、野球に熱中したといわれる。22(1889)年7月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。23(1890)年2月、『筆まかせ』の雅号の項に「野球」が初めて見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。29(1896)年には「日本」新聞に連載された『松蘿玉液』の中で野球のルール、用具、方法などについてくわしく解説している。野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献をした。「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」。1867~1902年 |
145 | 2003年 | 競技者表彰 | 上田 利治 | うえだ としはる | 熱血指導で阪急を常勝チームに 関西大学時代には村山 実投手とバッテリーを組み、昭和31(1956)年から3年連続して全日本大学野球選手権大会に出場し、黄金時代を築いた。昭和34(1959)年捕手として広島に入団。選手生活は3年と短かったが指導力と野球に対する情熱を買われ25歳の若さで広島のコーチとなった。その後、阪急・オリックスの監督時代に、4年連続を含む5度のリーグ優勝を達成した。50(1975)年からは3年連続日本一となり、20年の監督生活で1322勝を挙げた。1937~ |
146 | 2003年 | 競技者表彰 | 関根 潤三 | せきね じゅんぞう | 投手と野手でオールスター出場 法政大学時代に来日したサンフランシスコ・シールズ戦に、六大学選抜軍の投手として出場し、延長13回を投げたが2-4で惜敗する。昭和25(1950)年に投手として近鉄に入団し、32(1957)年からは打者に転向した。防御率ベストテン入り1回、打撃ベストテン入り5回。オールスター出場5回のうち、28(1953)年は投手で、38(1963)年は打者としてファン投票で選出された。引退後はコーチ、監督として若い選手の育成に努めた。監督を退いてからは、テレビ解説者として、長年に渡り活躍。1927~ |
147 | 2003年 | 特別表彰 | 松田 耕平 | まつだ こうへい | 大リーグを手本に球団改革を推進 昭和45(1970)年に広島東洋カープのオーナーに就任するや、大リーグの教育リーグへの選手派遣、球団初の海外キャンプの実施、球界初の外国人監督の起用など、大リーグを手本に球団改革を推し進めた。平成2(1990)年にはドミニカ共和国に「カープ・ベースボール・アカデミー」を設立、国内外での選手育成に力を注ぐなど先駆的な球団経営を推進した。球団創設26年目の昭和50(1975)年に悲願の初優勝を成し遂げ、リーグ優勝6度、日本一に3度輝くなど「赤ヘル黄金時代」を築いた。1922~2002年 |
148 | 2003年 | 特別表彰 (新世紀特別表彰) |
ホーレス・ウィルソン | ほーれす うぃるそん | 明治5年に野球を伝えた“日本野球のルーツ” 南北戦争に従軍後、お雇い外国人教師として来日する。明治5(1872)年に第一大学区第一番中学で英語や数学を教える傍ら生徒に野球を教えた。同校は翌年から開成学校(現東京大学)となり、立派な運動場ができると攻守に分かれて試合ができるまでになった。これが「日本の野球の始まり」といわれている。同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)、その他の学校へと伝わり、そこで野球を体験した人達が中心となって野球は日本全国へと広まっていった。現在の繁栄する日本野球の種をまいた人としてその功績は計り知れない。1843~1927年 |
149 | 2003年 | 特別表彰 (新世紀特別表彰) |
鈴鹿 栄 | すずか さかえ | 軟式ボールを考案し野球の普及に尽力 大正5(1916)年に京都市の小学校の教員グループが組織した、京都少年野球研究会に参加し、少年向きの野球ルールと適切なボールの研究開発を試みていた。あるときゴム靴の裏の滑り止めからヒントを得て、ゴムボールに靴底を張り付けたボールを試作した。さまざまな試行錯誤の結果、大正7年に子供のプレーに適した安全で安価な用球としてゴム製少年野球ボールを考案した。大正11(1922)年には大人用のボールも製品化され、大人の軟式野球も普及することになった。軟式野球は我が国最大の人口を持つスポーツであり、その普及と発展に対する功績は非常に大きい。1888~1957年 |
150 | 2004年 | 競技者表彰 | 仰木 彬 | おおぎ あきら | 「イチロー」を誕生させた名監督 昭和29(1954)年、西鉄に入団して、堅実な守備で1年目からレギュラーとなる。現役引退後、近鉄のコーチを18年つとめ、昭和63(1988)年に監督に就任し、翌年には西武、オリックスとまれに見る混戦を制して優勝を果たした。平成6(1994)年にオリックスの監督に就任すると、二軍から鈴木一朗を登用、登録名を「イチロー」に変更して、開幕から起用した。平成7、8(1995、1996)年とパ・リーグ2連覇し、8(1996)年には巨人を破って日本一となった。1935~2005年 |
151 | 2004年 | 特別表彰 | 秋山 登 | あきやま のぼる | 大洋初の日本一に貢献した大エース 高校、大学、プロを通じて、土井淳との不動のバッテリーで活躍。昭和31(1956)年に大洋入団以来、9年連続2ケタ勝利を挙げ、エースとしてチームを支えた。35(1960)年には59登板21勝10敗、防御率1.75で大洋初のリーグ優勝に貢献し、最優秀選手賞を獲得した。続く日本シリーズも、大方の予想を覆し、ストレートで大毎を降し、全4戦に登板した秋山は、最優秀投手賞を受賞した。現役引退後、大洋のコーチ、監督を歴任した。1934~2000年 |
152 | 2005年 | 競技者表彰 | 村田 兆治 | むらた ちょうじ | 豪快な“マサカリ投法”で大活躍 昭和43(1968)年ドラフト1位で東京オリオンズに入団し、翌年の対南海戦に初先発して完封勝利をかざる。昭和46(1971)年フォームを改造。“マサカリ投法”で剛速球とフォークボールを駆使し活躍する。昭和57(1982)年に肘を故障し、翌年渡米して手術を受ける。懸命のリハビリの後、約2年半ぶりに公式戦に復帰する。翌昭和60(1985)年には開幕から11連勝し、この年17勝5敗を記録した。平成元年のオールスタ―ゲーム第1戦に先発登板し、史上最年長勝利をあげて最優秀選手賞を獲得するなど、復帰後も2ケタ勝利を3度記録する活躍をした。1949~ |
153 | 2005年 | 競技者表彰 | 森 祇晶 | もり まさあき | 日本一3連覇を2度達成した名監督 岐阜高校では2年生から4番を打ち、3年生の昭和29(1954)年には夏の甲子園大会に出場。翌年巨人軍に入団し、昭和34(1959)年からレギュラーとなり、36(1961)年から8年連続ベストナインに選ばれる。昭和42(1967)年には日本シリーズでMVPを受賞するなど、巨人V9を支えた名捕手。現役引退後ヤクルト、西武のコーチを経て、昭和61(1986)年西武監督に就任し、9年間でリーグ優勝8回、日本シリーズ3連覇を2度達成するなど、監督としての手腕を大いに発揮した。西武監督時代の昭和61(1986)年と平成2(1990)年に正力賞を受賞。1937~ |
154 | 2005年 | 特別表彰 | 志村 正順 | しむら まさより | 野球人気に貢献した名アナウンサー プロ野球草創期から活躍した名アナウンサー。沢村栄治投手のプロ野球公式戦の活躍を「沢村、左足を靴底のスパイクがはっきり見えるほど、高々と上げました。」と細かく描写し、ラジオで初めて放送した。昭和22(1947)年から月刊誌『野球少年』でゲームの推移を実況放送風に文章にした「誌上放送」を執筆し、全国の少年達に野球の楽しさを伝えた。昭和30(1955)年からは小西得郎を解説者に迎え、アナウンサーと解説者が組むことで、実況と情景描写に「会話」を加え、聴くだけの放送から参加感のある、新しい野球放送のスタイルを確立した。1913~2007年 |
155 | 2006年 | 競技者表彰 | 門田 博光 | かどた ひろみつ | 怪我を克服し、史上最年長MVPに 昭和45(1970)年ドラフト2位で南海に入団し、翌年3番に抜擢され、この年打率.300、31本塁打、120打点を記録して打点王を獲得した。昭和54(1979)年のキャンプ中にアキレス腱を切断したが、懸命のリハビリにより、翌年には41本塁打を打って復活した。40歳になった昭和63(1988)年全試合に出場して、44本塁打、125打点で2冠を獲得し、史上最年長のMVPに選ばれた。通算567本塁打は歴代3位。1948~ |
156 | 2006年 | 競技者表彰 | 高木 守道 | たかぎ もりみち | 攻走守三拍子そろったバックトスの名手 昭和34(1959)年に県立岐阜商高で選抜高等学校野球大会準優勝し、翌年中日に入団。高校時代から功走守三拍子を備えた名二塁手で、“いぶし銀”の活躍を見せた。二塁手で7度のベストナインは2リーグ制以降では最多。また「バックトス」の名手といわれゴールデングラブ賞も3回獲得した。盗塁王も3回獲得し、昭和53(1978)年には通算2000本安打を達成した。引退後、中日のコーチ、監督を務めた。1941~ |
157 | 2006年 | 競技者表彰 | 山田 久志 | やまだ ひさし | 独特のサブマリン投法で通算284勝 昭和44(1969)年ドラフト1位で阪急に入団し、独特のサブマリン投法で翌年には10勝をあげた。以後、17年連続2桁勝利、12年連続開幕投手、投球回数200イニング以上13回、3年連続MVPなど輝かしい足跡を残した。昭和51(1976)年には自己最高の26勝をあげるなど、数々の記録をうちたて阪急のエースとして活躍した。引退後、オリックス、中日のコーチを経て中日の監督を務めた。1948~ |
158 | 2006年 | 特別表彰 | 川島 廣守 | かわしま ひろもり | プロ・アマの協調体制を加速させる 昭和63(1988)年、日米野球協定の見直しに着手。その後、日米球界連絡強化策を打ち出し、平成12(2000)年3月米大リーグ開幕戦の日本での開催を実現させた。セ・リーグ会長時代からのプロ・アマ協調体制の確立に尽力。平成16(2004)年には高野連と「新人選手選択に関する覚書」に調印し、プロ・アマの雪解けを加速させるなど、セ・リーグ会長14年、コミッショナー2期6年の合計20年の長期に亘り、プロ野球界の発展に寄与した。1922~ |
159 | 2006年 | 特別表彰 | 豊田 泰光 | とよだ やすみつ | 西鉄黄金時代にクリーンアップを打つ 昭和28(1953)年西鉄に入団。1年目から遊撃手のレギュラーとなり、打率.281、27本塁打という高卒新人としては、異例の好成績で新人王を獲得した。日本シリーズ3連覇を達成した西鉄黄金時代には、クリーンアップを打ち「大舞台に強い打者」として優勝に貢献した。ベストナイン6回、オールスター出場9回。近鉄のコーチを務めたのち、さまざまなメディアで野球評論家として活躍。1935~ |
160 | 2007年 | 競技者表彰 | 梶本 隆夫 | かじもと たかお | 9連続奪三振は今も日本記録 昭和29(1954)年阪急に入団し、高卒ルーキーながら開幕投手となり初勝利をあげる。この年55試合に登板、20勝12敗の好成績をおさめた。実働20年で20勝以上を4回記録。31(1956)年は自己最高の28勝をあげ、32年(1957)にはゲーム最多連続奪三振9の日本記録を達成した。20年代後半から40年代の阪急を支えた名投手。通算成績 867登板は歴代3位、2945奪三振は6位、254勝は9位。1935~2006年 |
161 | 2007年 | 特別表彰 | 松永 怜一 | まつなが れいいち | 優れたアマ指導者でロス五輪優勝監督 高校、大学、社会人野球の監督として多くの優れた選手、指導者を育てあげ「野球指導者の中の指導者」と言われた。法政大学監督時代には、田淵幸一、山本浩二などを擁しリーグ優勝6回を達成。昭和59(1984)年のロス五輪の野球(公開競技)では、全日本チームを率いて金メダルを獲得し、世界アマチュア野球連盟最優秀監督賞を受賞。アマチュア野球界でさまざまな要職を歴任し、野球の普及発展、技術向上に尽力した。1931~ |
162 | 2008年 | 競技者表彰 | 山本 浩二 | やまもと こうじ | “ミスター赤ヘル”と呼ばれた広島の4番打者 大学時代は、田淵、富田と共に「法政三羽ガラス」と呼ばれ、黄金時代を築く。1969年ドラフト1位で広島に入団し、1年目からレギュラー選手として活躍。1975年には打率..319、30本塁打を記録して首位打者を獲得、広島を初優勝に導き、MVPに選ばれる。1977年からは5年連続40本塁打以上をマークし本塁打王を4回獲得するなど「ミスター赤ヘル」と呼ばれ、球界を代表する選手として活躍した。1946~ |
163 | 2008年 | 競技者表彰 | 堀内 恒夫 | ほりうち つねお | ルーキーで16勝をあげエースとしてV9に貢献 甲府商業から1966年ドラフト1位で巨人に入団。ルーキーで開幕から13連勝を含む16勝2敗、防御率1.39をマークして、新人王、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞を獲得。以後、1978年まで13年連続2桁勝利を挙げる。1967年には自ら3打席連続ホームランを打ち、ノーヒットノーランを達成した。1972年には26勝をあげて最多勝を獲得し、MVPに選ばれた。速球と大きく落ちるカーブを武器にエースとして巨人のリーグ優勝12回、日本一9回に貢献した。1948~ |
164 | 2008年 | 特別表彰 | 嶋 清一 | しま せいいち | 夏の甲子園の準決勝、決勝でノーヒットノーラン 旧制和歌山県立海草中学の左腕投手として春2回、夏4回甲子園大会に出場。とくに昭和14(1939)年の第25回全国中等学校優勝野球大会では全5試合を被安打8、奪三振57の成績で完封。準決勝、決勝では2試合連続ノーヒットノーランを達成という、大会史上初の偉業を達成し、海草中学を初優勝に導いた。明治大学に進学し、将来を嘱望されたが、昭和20(1945)年3月インドシナ半島沖で戦死。享年24歳。1920~1945年 |
165 | 2009年 | 競技者表彰 | 若松 勉 | わかまつ つとむ | 生涯打率.319の「小さな大打者」 ドラフト3位で1971年ヤクルトに入団。小柄ながら抜群のバッティングセンス を持ち、初年度は規定打席未満ながら打率.303をマーク。翌年には打率.329で首位打者を獲得した。以来3割以上を12回獲得し、チームが悲願の日本 一を遂げた1978年には打率.341、17本塁打、71打点を挙げ見事にMVPに選ばれた。通算打率.319は4000打数以上ではセ・リーグトップの記録となっている。1947~ |
166 | 2009年 | 競技者表彰 | 青田 昇 | あおた のぼる | 「じゃじゃ馬」と呼ばれたホームランバッター 1942年滝川中から巨人に入団。42試合の出場ながら打率.355の好成績で 中心選手となり、翌1943年には42打点を挙げ打点王に輝いた。戦後は阪急に 2年間在籍したが、1948年に巨人に復帰し、大映の小鶴誠、南海の山本一人 と最終戦まで首位打者を争い7毛差の打率..306でタイトルを獲得。また、25本塁打でチームメイトの川上哲治と本塁打王を分け合った。1951年にも本塁打王、打点王の二冠を取り、巨人の二リーグ制後初の日本一に貢献した。1924~1997年 |
167 | 2009年 | 特別表彰 | 大社 義規 | おおこそ よしのり | 野球とチームを愛した日本ハム初代オーナー 1942年に徳島市で食肉加工業を始め、その後日本ハムと商号を変更した。野球 界への参入を考え、旧制高松中学の先輩である三原 脩氏の協力を得て、1973年日拓ホームフライヤーズを買収し、日本ハムファイターズとしてプロ野球に 参戦、初代オーナーに就任した。チームをこよなく愛し、少年ファンクラブの 充実、沖縄キャンプの開拓、育成総合施設「鎌ヶ谷ファイターズタウン」建設 など積極的な球団経営を展開し、パ・リーグの人気振興にも貢献した。1915~2005年 |
168 | 2009年 | 特別表彰 | 君島 一郎 | きみじま いちろう | 日本野球発祥の研究をし、「日本野球創世記」を著す 第一高等学校在学中、野球部で二塁手を務め攻守に活躍した。明治時代の野球 草創期の故事解明に情熱を持って取り組み、1971年に学士会会報で、野球発祥 については諸説ある中で「ベースボールが日本に渡来したのは明治5(1872)年。発祥 の地という場所は現学士会館本館敷地である」との見解を明らかにした。1972年には「日本野球創世記」著し、野球渡来の経緯を皮切りに、わが国の野球の 生い立ちを理論的、また緻密で分かり易く紹介した。1887~1975年 |
169 | 2010年 | 競技者表彰 | 東尾 修 | ひがしお おさむ | 通算251勝、ライオンズのエース 1969年に箕島高校からドラフト1位で西鉄入団。2年目に11勝し、以来ライオンズ一筋にエースとして活躍。太平洋時代の’75年に23勝で最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得。西武になった後の1983年には最多勝と最優秀防御率を獲得し、MVPに選ばれた。1987年にも再びMVPに選出され、5回の日本シリーズ優勝に貢献した。制球力を生かし、打者の内角を鋭く突くピッチングで通算251勝を挙げた。1950~ |
170 | 2010年 | 競技者表彰 | 江藤 慎一 | えとう しんいち | 史上初の両リーグで首位打者 熊本商業から日鉄ニ瀬を経て1959年に中日入団。1年目から130試合に出場し、活躍をした。ファイトあふれるプレーで「闘将」と呼ばれ1964年、1965年と2年連続首位打者を獲得、ロッテ移籍後の1971年にも首位打者となり、日本プロ野球史上初の両リーグでの首位打者となった。プロ野球引退後、静岡県天城湯ヶ島町に「日本野球体育学校」を設立し、アマチュア選手の指導にもあたった。1937~2008年 |
171 | 2010年 | 特別表彰 | 古田 昌幸 | ふるた まさゆき | 都市対抗16回出場「ミスター社会人」 1956年に立教大学から熊谷組に入社。勝負強い打撃と二塁手として抜群の守備で活躍した。1957年にはデトロイトで行われた第3回世界野球大会に出場し、日本チームとして初の世界一達成に貢献した。都市対抗野球大会には選手、選手兼監督として13年連続を含む16回出場し、3回優勝を達成。アマチュア一筋を貫き、選手引退後も日本野球連盟の要職を歴任し、社会人野球の振興に尽力した。1933~1999年 |
172 | 2011年 | 競技者表彰 | 落合 博満 | おちあい ひろみつ | 史上初の三冠王を三度達成 1979年にドラフト3位でロッテに入団。1981年は打率.326で首位打者を獲得。1982年に史上最年少の28歳で三冠王となる。1985年には打率.367、52本塁打、146打点という驚異的な成績をあげて2度目の三冠王。さらに、翌年も三冠王となり、史上初となる3度の三冠王を達成した。 1987年中日に移籍後も打点王2回、本塁打王2回を獲得。その後巨人、日本ハムでも活躍した。 |
173 | 2011年 | 競技者表彰 | 皆川 睦雄 | みながわ むつお | 南海の黄金時代を支えたサイドスロー 小さく曲がるスライダーやシュートを武器に、入団3年目の1956年から1971年の引退までに二桁勝利を12回達成。1962年、1966年に最高勝率をマークした。1968年には31勝で、最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得し、ベストナインを受賞。南海一筋18年で221勝、防御率2.42の成績をあげた。引退後は阪神、巨人、近鉄のコーチを務めた。 |
174 | 2012年 | 競技者表彰 | 北別府 学 | きたべっぷ まなぶ | 広島3度の日本一に貢献 1976年に都城農業からドラフト1位で広島に入団。3年目に10勝をあげ、以来エースとして11年連続二桁勝利をあげる。チームが初の日本一となった1979年は、チーム最多の17勝。1982年に開幕から11連勝、初の20勝をあげ最多勝を獲得、沢村賞にも選ばれる。1986年には最多勝、最優秀防御率、MVPを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献、2度目の沢村賞を獲得する。抜群の制球力で、球団初の200勝投手となり、引退後は広島で投手コーチを務めた。 |
175 | 2012年 | 競技者表彰 | 津田 恒実 | つだ つねみ | 速球を武器に「炎のストッパー」と呼ばれた 南陽工業から協和発酵を経て1982年にドラフト1位で広島に入団。1年目から19試合に先発し、11勝6敗で新人王を獲得。肩の故障から復活後1986年にリリーフに転向、4勝22セーブでカムバック賞を受賞。1989年には12勝28セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得した。オールスターにも5回出場、10回1/3を投げ失点0、12奪三振を記録。攻めに徹した投球は、“炎のストッパー”と呼ばれた。1993年7月、脳腫瘍のため32歳の若さで帰らぬ人となった。 |
176 | 2012年 | 特別表彰 | 長船 騏郎 | おさふね きろう | 全日本アマチュア野球連盟の結成に貢献 長年にわたり日本学生野球協会の運営に携わり、全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会、日米大学野球大会などの開催を手掛けた。学生と社会人による全日本アマチュア野球連盟の結成に貢献し、のちに会長に就任した。また、日本野球界全体の発展を考え、プロ野球との交流を広げるため全日本野球会議の設立にも尽力、プロ野球選手のオリンピック出場の道を拓いた。シドニーオリンピックで、プロ・アマ合同チームを実現し、続くアテネでは野球日本代表チームを派遣する編成委員会委員長を務めた。 |
177 | 2012年 | 特別表彰 | 大本 修 | おおもと おさむ | 「アオダモ資源育成の会」を設立 高校野球で金属バットが導入されると、その安全基準を定めるなど、製品安全協会の安全管理委員会委員長として、認定基準の審議に尽力。また、プロ野球コミッショナーからの要請により木製バット折損事故防止を研究する「バット問題諮問委員会」の委員長を務め、バット安全問題の権威として野球界に貢献した。さらに、バット材として貴重なアオダモを守るため「アオダモ資源育成の会」を発案。プロ、アマチュアを問わず野球界全体が賛同し、アオダモの植樹が続けられている。 |
178 | 2013年 | 競技者表彰 | 大野 豊 | おおの ゆたか | 80年代の広島黄金時代を支えた左腕 軟式野球の出雲信用組合から1977年にドラフト外で広島に入団した左腕投手。先発、リリーフとして活躍。1988年に防御率1.70で最優秀防御率のタイトルを獲得し、沢村賞に選ばれる。1991年に6勝26セーブ32セーブポイントで最優秀救援投手となる。1997年は防御率2.85で2度目の最優秀防御率のタイトルを獲得。実働22年間で広島の3度の日本一と5度のリーグ優勝に貢献した。 |
179 | 2013年 | 競技者表彰 | 外木場 義郎 | そとこば よしろう | 完全試合を含むノーヒットノーラン3度達成 1964年に広島に入団。1965年、プロ初勝利をノーヒットノーランで飾る。1968年には完全試合、1972年に3回目のノーヒットノーランを達成。完全試合1回を含む3回の達成はプロ野球史上初となる。1975年には20勝、193奪三振で最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得し、沢村賞にも選ばれる活躍で、広島球団創立以来初のリーグ優勝に貢献した。 |
180 | 2013年 | 特別表彰 | 福嶋 一雄 | ふくしま かずお | 小倉高のエースで夏の甲子園2連覇 旧制小倉中学、小倉高校のエースとして夏の甲子園大会2連覇。1947年は全5試合に完投しチームを九州勢初の優勝に導き、翌年も全5試合完封勝利という偉業を達成。早稲田大学から八幡製鐵に入社した1954年の都市対抗野球大会で5試合に登板し、チームに17年ぶり2度目の優勝をもたらした。選手引退後は日本野球連盟理事、日本野球連盟九州地区理事長など要職を歴任。 |
181 | 2014年 | 競技者表彰 | 野茂 英雄 | のも ひでお | トルネード投法で人気を博し日米で活躍 新日鐵堺時代に全日本に選出されソウル五輪に出場し、銀メダルを獲得。1990年ドラフト1位で近鉄に入団。“トルネード投法”から繰り出される剛速球とフォークボールを武器に1年目から最多勝、最多奪三振をはじめタイトルを独占し、新人王、MVPに輝く。1995年にロサンゼルス・ドジャースに移籍し、13勝6敗、リーグ最多の236奪三振で新人王に選ばれた。日米通算で201勝。 |
182 | 2014年 | 競技者表彰 | 秋山 幸二 | あきやま こうじ | 80、90年代を代表する俊足強打の外野手 1981年ドラフト外で西武に入団。 1987年に43本塁打で本塁打王、1989年には“3割、30本塁打、30盗塁”のトリプルスリーを達成した。西武黄金時代の中心選手として、8度のリーグ優勝と6度の日本一に貢献。1994年ダイエーに移籍し、1999年には主将としてチームを日本一に導くなど、1980~90年代の球界を代表する俊足強打の外野手として活躍した。 |
183 | 2014年 | 競技者表彰 | 佐々木 主浩 | ささき かづひろ | “大魔神”と呼ばれ日米で活躍したクローザー 1990年ドラフト1位で大洋に入団。1991年からリリーフとして活躍。1995年から4年連続リーグ最多セーブを記録。1998年には抑えとして45セーブをあげ、チームを38年ぶりの日本一に導き、MVPにも選出された。2000年にシアトル・マリナーズに移籍し、37セーブで新人王を獲得。“大魔神”と呼ばれ、フォークボールを武器に日米通算381セーブをあげた。 |
184 | 2014年 | 特別表彰 | 相田 暢一 | あいだ ちょういち | “最後の早慶戦”の実現と戦後の野球復興に尽力 早稲田大学野球部に投手として入部し、のちにマネージャーとなる。昭和18年には「出陣学徒壮行早慶戦」実現のため奔走した。また、戦時中にバットやボールを集め保管、戦後これらを各校に配布したことで、早い時期の野球復興が実現した。長年高校、大学、社会人野球の審判人としても活躍。日本学生野球協会、日本高等学校野球連盟、日本社会人野球協会などで数々の要職を歴任するなど、アマチュア野球界の発展に大きな功績を残した。 |
185 | 2015年 | 競技者表彰 | 古田 敦也 | ふるた あつや | ヤクルト一筋の日本を代表する名捕手 立命館大学から1988年にトヨタ自動車に入社、同年のソウル五輪で銀メダルを獲得。 1990年にドラフト2位でヤクルトに入団。野村克也監督のもと、捕手の英才教育を受け、ベストナイン9回、ゴールデングラブ賞10回受賞。打撃でも2年目に首位打者を獲得し、打率3割以上を8回、通算2,097安打を達成。ヤクルト一筋の現役18年でMVPを2回受賞するなど、中心選手としてチームをリーグ優勝5回、日本シリーズ優勝4回に導く。 |
186 | 2015年 | 特別表彰 | 林 和男 | はやし かずお | 日本リトルリーグ創設に尽力 小学生の硬式野球を広めるため 1964年に日本リトルリーグ創設に尽力。1967年に西東京リーグの監督として世界選手権に優勝。1970年には、リトル卒業後から高校まで硬式野球ができる組織がつくれないかと考え、調布シニアを設立。同時に日本リトルシニア野球協会理事長に就任。2000年にはリトルとシニアの協会を統合した全日本リトル野球協会の設立に尽力。2005年からは会長を務め、少年野球の底辺の拡大に貢献し、青少年の健全育成を推進した。 |
187 | 2015年 | 特別表彰 | 村山 龍平 | むらやま りゅうへい | 全国中等学校優勝野球大会を創設 1879年に朝日新聞社を設立し、社長在任中の1915年に「全国中等学校優勝野球大会」(現在の全国高等学校野球選手権大会)を創設。大阪府豊中市の豊中グラウンドで開催された第一回大会で始球式を務めた。この全国大会の創設により、中等学校野球が全国に広まる契機となった。その後、全国高等学校野球選手権大会は夏の国民的スポーツイベントとなり、野球人口の裾野を広げ、野球技術の向上に貢献している。 |
188 | 2016年 | 競技者表彰 | 斎藤 雅樹 | さいとう まさき | 1982年のドラフト1位で巨人に入団。1989年に11試合連続完投勝利のプロ野球記録をつくり、20勝7敗、防御率1.62で最多勝、最優秀防御率の2冠を獲得し、沢村賞にも選ばれるなど、チームのリーグ優勝、日本一に貢献。1995年は18勝10敗で最多勝、’96年には最多勝と最優秀防御率の2冠を獲得して、2年連続3回目の沢村賞に選ばれるなど、エースとして活躍。最多勝利5回はスタルヒンの6回に次ぐ歴代2位。 |
189 | 2016年 | 競技者表彰 | 工藤 公康 | くどう きみやす | 1981年のドラフト6位で西武に入団。1986年に11勝をあげリーグ優勝に貢献。日本シリーズでも投打に活躍しMVPを受賞。西武では11回のリーグ優勝、8回の日本一に貢献。ダイエーでも1999年に11勝をあげ、最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを獲得し、チームをリーグ優勝と日本一に導いた。巨人では2000年、2002年に、日本一となる。日本シリーズに王 貞治と並ぶ史上最多の14年出場し11回日本一、3球団で勝利投手となった唯一の選手。実働29年は山本昌、中島聡とともにプロ野球記録。 |
190 | 2016年 | 競技者表彰 | 榎本 喜八 | えのもと きはち | 1955年にテストを受け毎日に入団し、高卒新人ながら開幕戦で「5番」デビューを果たす。この年139試合に出場し、146安打、打率.298で新人王を獲得。1960年には首位打者、最多安打を記録し、チームのリーグ優勝に貢献した。1年目から15年連続100安打以上を記録し、7年目には1000安打を達成。プロ野球史上最年少の31歳7カ月で2000本安打に到達。また、大毎時代は「ミサイル打線」の主軸として活躍し50年代、60年代を代表する「安打製造機」といわれた。 |
191 | 2016年 | 特別表彰 | 松本 瀧蔵 | まつもと たきぞう | 戦後の野球復興に貢献。幼少期に家族でアメリカに渡る。アメリカから帰国後、広陵中学に編入し、卒業後明治大学へ。1929年明大野球部の世界一周遠征にマネージャーとして参加。 戦後、英語力を生かし、選抜高校野球大会の復活など、野球復興のための様々な交渉に携わる。サンフランシスコ・シールズが戦後初めてプロ野球チームとして来日した際には、日本側の実行委員長、第一回日米野球選手権で、ケープハーツが来日した際にも代表委員を務める。また1949年に社会人野球協会が発足した際には顧問、1955年からは副会長を務めた。 |
192 | 2016年 | 特別表彰 | 山中 正竹 | やまなか まさたけ | 法政大学で一年春から投手として活躍、松永怜一監督のもと法大の黄金時代を築く大きな原動力となり、東京六大学リーグの歴代最多勝記録となる通算48勝をあげた。卒業後、住友金属へ進み6年連続で都市対抗に出場、1981年から監督となり1982年都市対抗優勝。1992年バルセロナ五輪の監督として銅メダルを獲得。1994年から法大の監督となり、リーグ優勝7回、全日本大学野球選手権大会優勝1回を達成。アマチュア野球界でプレーヤーとして、また指導者としても活躍し、球界の発展に貢献した。 |
193 | 2017年 | 競技者表彰 | 伊東 勤 | いとう つとむ | 西武黄金期を支えた名捕手 1981年ドラフト1位で西武に入団。3年目からレギュラーとなり、1980~90年代の西武黄金期を支える捕手となる。パ・リーグ記録となった連続守備機会無失策の堅守と、投手の力を最大限に引き出すリードで、チームのリーグ優勝14回、日本一8回に貢献した。捕手としてベストナイン10回、ゴールデングラブ賞11回を獲得。 |
194 | 2017年 | 競技者表彰 | 星野 仙一 | ほしの せんいち | 楽天を初の日本一に導いた「闘将」 1968年ドラフト1位で、中日入団。現役時代は、闘志あふれる投球で人気を集め、1974年のリーグ優勝に大きく貢献した。中日監督として、1988・1999年と2回のリーグ優勝。2003年には阪神監督として、18年振りのリーグ優勝に導いた。2011年から楽天の監督となり、2013年には球団創設9年目のチームを、初の日本一に導いた。監督として、3球団でのリーグ優勝は史上3人目、17年で1181勝をあげた。 |
195 | 2017年 | 競技者表彰 | 平松 政次 | ひらまつ まさじ | 「カミソリ・シュート」を武器に大洋で201勝 1965年の選抜大会に、岡山東商業のエースとして出場し、優勝。社会人野球の日本石油に進み、1967年の都市対抗で優勝に貢献し、橋戸賞を獲得した後に、大洋に入団。1969年から12年連続2桁勝利をあげ、1970年には25勝19敗、6完封、防御率1.95で沢村賞を獲得。「カミソリ・シュート」を武器にエースとして活躍、通算201勝のうち、51勝を巨人からあげ、「巨人キラー」と言われた。 |
196 | 2017年 | 特別表彰 | 郷司 裕 | ごうし ひろし | アマの名審判、審判指導者としても貢献 明大野球部で、審判として技術を磨き、卒業後は高校、大学、社会人のさまざまな大会で審判を務めた。特に高校野球では、1969年夏の松山商業対三沢高の決勝戦と決勝再試合で球審を務めるなど、春夏を通じ、数多くの審判を任された。現役引退後も、審判員の技術向上に尽力、また、後進の指導にも力を注ぐなど、アマチュア野球界の発展に貢献した。 |
197 | 2017年 | 特別表彰 | 鈴木 美嶺 | すずき みれい | 日本野球規則委員会で中心的役割を果たす 1955年12月、プロとアマの野球規則書の合同化が決定し、その編纂委員として参画。規則書の執筆担当者として「1956年度公認野球規則」の発行に尽力。以後亡くなるまでの長い間、「公認野球規則」制作の中心的役割を果たした。また、「わかりやすい公認野球規則」や「野球ルール千夜一夜」など規則に関する書籍を著し、野球規則の正しい理解、普及に努めた。 |
198 | 2018年 | 競技者表彰 | 松井 秀喜 | まつい ひでき | 「ゴジラ」の愛称で親しまれたスラッガー "ゴジラ"の愛称で親しまれた、平成を代表するスラッガー。星稜高校から、1992年ドラフト1位で巨人に入団。在籍10年間で、首位打者1回、本塁打王3回、打点王3回のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝4回、日本一3回に貢献した。2003年、ヤンキースに移籍。2009年には、ワールドシリーズでMVPを受賞。日米通算で507本塁打を記録、チームの主軸として活躍した。 |
199 | 2018年 | 競技者表彰 | 金本 知憲 | かねもと ともあき | 1492連続試合全イニング出場の「鉄人」 1991年ドラフト4位で広島に入団。2000年には、打率.315、30本塁打、30盗塁で、史上7人目のトリプルスリーを達成。03年、阪神に移籍し、同年と2005年のリーグ優勝に貢献、2005年にはMVPを受賞した。1999年から10年まで、大リーグ記録を上回る1492最多連続試合全イニング出場を達成するなど、"鉄人"と呼ばれ、常にチームの中心選手として活躍した。 |
200 | 2018年 | 競技者表彰 | 原 辰徳 | はら たつのり | 巨人監督で3度日本一、第2回WBC優勝監督 東海大相模高校、東海大学を経て、1980年ドラフト1位で巨人に入団。1981年リーグ優勝、日本一に貢献し、新人王に選ばれた。1983年には打点王を獲得、MVPを受賞しチームをリーグ優勝に導く。引退後は、巨人の監督を通算12年務め、リーグ優勝7回、日本一3回を達成。また、2009年の第2回WBCでは、日本代表監督として、チームを連覇に導いた。 |
201 | 2018年 | 特別表彰 | 瀧 正男 | たき まさお | 中京商で選手、指導者として春・夏全国優勝 中京商業の選手として、1937年夏・38年春の甲子園大会で優勝。戦後は、同校指導者として、1954年夏・1956年春に優勝、選手・指導者の両方で、春夏の甲子園大会で優勝を成し遂げた。1956年から中京大学野球部長・監督となり、愛知大学野球リーグ戦で、28回優勝。1970年には、全日本大学野球選手権大会で、東海勢として初めて優勝し、日本一となる。指導者の育成にも力を注ぎ、アマチュア野球界の発展に貢献した。 |
202 | 2019年 | 競技者表彰 | 立浪 和義 | たつなみ かずよし | 中日一筋、通算2480安打の名内野手 PL学園高校の主将として、1987年に甲子園春夏連覇を達成。同年、ドラフト1位で中日に入団。1988年、110試合に出場し、チームのリーグ優勝に貢献。新人王を獲得し、高卒新人として史上初めてゴールデングラブ賞を獲得した。以来、攻守にわたる活躍で、1999年・2004年・2006年のリーグ優勝、2007年の日本一に貢献した。通算2480安打、歴代1位となる487二塁打の成績を残し、中日一筋で、中心選手として活躍した。 |
203 | 2019年 | 競技者表彰 | 権藤 博 | ごんどう ひろし | 1998年、監督として横浜を日本一に導く 中日に入団した1961年に最優秀防御率・最多勝利・最多奪三振のタイトルを獲得し、翌年も最多勝利。連投に次ぐ連投の活躍から、「権藤、権藤、雨、権藤」といわれた。引退後、中日、近鉄、ダイエーの3球団で投手コーチを歴任し、1997年横浜のバッテリーコーチを経て、1998年監督に就任。“マシンガン打線”と呼ばれる切れ目のない強力な攻撃陣と、盤石な分業制の投手陣をまとめあげ、チームを38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた。 |
204 | 2019年 | 特別表彰 | 脇村 春夫 | わきむら はるお | プロ・アマ交流の礎を築いた高野連会長 1949年夏、湘南高校の甲子園初出場、初優勝に貢献。卒業後、東京大学に進学し、4年次には主将を務める。その後、社会人の東洋紡富田に進み、1955年の都市対抗ベスト8に貢献。2002年に第5代高野連会長に就任すると、2004年にプロ野球と「新人選手選択に関する覚書」に調印。また、全国でプロ野球現役選手によるシンポジウム「夢の向こうに」を開催するなど、プロ・アマ関係の交流促進の礎を築いた。 |
205 | 2020年 | 競技者表彰 | 田淵 幸一 | たぶち こういち | 阪神、西武で474本塁打を放つ 山本浩二、富田勝と共に「法政三羽ガラス」の一人として法政大学黄金時代を築く。1968年、ドラフト1位で阪神に入団。翌年、22本塁打の活躍で新人王を受賞。1975年には43本塁打を放ち本塁打王を獲得するなど、強肩強打の捕手として活躍した。西武に移籍後は1982・83年の日本一に貢献。通算474本塁打を放ち「ホームランアーチスト」と呼ばれた。引退後はダイエー監督を務めた後、星野仙一監督を支え、阪神・北京五輪日本代表・楽天のコーチを歴任した。 |
206 | 2020年 | 特別表彰 | 前田 祐吉 | まえだ ゆうきち | 慶大監督を経て、アジア野球連盟事務局長を務めた 高知城東中学、慶應義塾大学で活躍。ニッポンビールを経て、1960年に慶大監督に就任し、同年秋の「早慶六連戦」を指揮した。1982年監督に復帰すると、1985年秋にはリーグ戦10勝1分で無敗優勝を飾るなど、チームを復活させた。「エンジョイ・ベースボール」をモットーに、監督在任18年で8回の優勝。1997年から2006年まで、アジア野球連盟事務局長として野球途上国の支援を行うなど、国際的な野球の普及に貢献した。 |
207 | 2020年 | 特別表彰 | 石井 連藏 | いしい れんぞう | 早大監督を務め、日米大学野球開催に尽力 早稲田大学では、1954年秋季リーグ戦で首位打者を獲得し優勝に貢献するなど、主将・エース・四番打者として活躍。日本鋼管を経て、1958年早大監督に就任。1960年秋には「早慶六連戦」を制し、逆転優勝に導く。退任後は、1972年の日米大学野球選手権大会の創設に尽力。1988年早大監督に復帰すると、1990年春に15シーズンぶりのリーグ優勝に導く。監督在任13年で4回の優勝。厳しい指導で多くの後進を育成した。 |
作成・2009/12/01
更新・2018/01/15