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【特集】巨人 名選手列伝
このページでは、巨人の名選手・監督をご紹介しています。
■第1回「堀内恒夫第14代監督」
■第2回「川相昌弘内野手」
■第3回「長嶋茂雄終身名誉監督」
■第4回「王貞治第10代監督」
■第5回「藤田元司第9・11代監督」
■第3回「長嶋茂雄終身名誉監督」
略歴 | 1958年 | 巨人入団。 |
1971年 | 2000本安打達成。 | |
1974年 | 現役引退。 | |
1975年 | 巨人監督。(-1980年) | |
1981年 | 評論家(-1992年) | |
1988年 | 野球殿堂入り。 | |
1993年 | 巨人監督。(-2001年) | |
2002年 | 巨人終身名誉監督。 |
昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、今日まで17年間、巨人軍並びに
長嶋茂雄のために絶大なるご支援を頂きまして誠にありがとうございました。
皆さんから頂戴いただきましたご支援、熱烈なる応援をいただきまして、
今日まで私なりの野球生活を続けて参りました。
いまここに自らの体力の限界を知るに至り、引退を決意いたしました。
振り返りますれば、17年間にわたる現役生活、いろいろなことがございました。
その試合をひとつひとつ思い起こします時に、好調時には、皆様の激しい大きな拍手を
この背番号3をさらに闘志をかきたててくれ、また不調の時には皆様の温かいご声援が
今日まで私を支えてきました。
不運にも、我が巨人軍はV10を目ざして監督以下選手一丸となり、死力を
尽くして最後の最後までベストを尽くして戦いましたが力ここに及ばず、
10連覇の夢は敗れ去りました。
私は今日引退いたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です。
今後、微力ではありますが、巨人軍の新しい歴史の発展のために、栄光ある
巨人軍が明日の勝利のために、今日まで皆さまがたからいただいたご支援、
ご声援を糧としまして、さらに前進して行く覚悟でございます。
長い間、皆さん、本当にありがとうございました。
以上がかの有名な引退の挨拶。
そんな長嶋のデビューもある意味鮮烈なものであった。
立教大から熱烈なスカウト合戦の末に巨人に入団した長嶋。
1958年4月5日、長嶋は、国鉄との後楽園での開幕戦に3番スタメンで出場。
相手の先発は、当時国鉄の大エース金田正一であった。
オープン戦では、19試合で7本塁打。ところが、ファンを感心させた長嶋のバットは
空を切るばかり。
初回は金田の速球の前に空振り三振に。4回の2打席目では金田の鋭いカーブに
タイミングを狂わされて空振り三振。7回の第3打席目は金田の速球の前に3球三振。
最後の第4打席でもフルカウントからカーブを空振り三振に。
4打席連続空振り三振という、デビュー戦となった。
しかしながら、ルーキーのこの年、新人王と本塁打王などを獲得、メジャーへの階段
を突き進む。
2年目の1959年6月25日、後楽園球場で行われた巨人-阪神戦は、史上初の天覧
試合だった。
当然のように先発は巨人・藤田、阪神・小山の両エース。試合は緊迫の中、1点を争う
好ゲームとなる。
3回に阪神は1点を先制したものの、5回に長嶋はレフトスタンドへ同点に追いつく12号
ソロ本塁打を打ち、続く坂崎一彦も2者連続本塁打を放って2-1と逆転に成功した。
阪神も反撃に出て、6回にタイムリーと2ランで4-2と逆転に成功、巨人も7回にルーキー
の王貞治がライトスタンドへ同点の4号2ラン本塁打を放った。実はこれが、後に通算
106度にも及ぶONアベック本塁打の記念すべき1回目となった。
同点になったところで、阪神は小山をあきらめて剛速球を投げるルーキー村山実に継投。
そして、運命の9回裏に。
先頭バッターは長嶋。カウント2-2と追い込まれた5球目、内角高めに食い込んできた
速球を長嶋は完璧に叩いた。打球は、ライナーで左翼ポール際に突き刺さる。劇的な
13号サヨナラ本塁打。
この試合で長嶋の勝負強さは日本中に知れ渡った。そして、野球が日本で最も人気の
あるスポーツとして定着していく一歩となった。
長嶋の魅力はファンに魅せるプレー。
堅実なミートでヒットを飛ばす一方、豪快な空振でファンを沸かせた。それもそのはず、
長嶋の空振は、ヘルメットが脱げて三塁ベンチの方へ飛んでいくからである。
実はこれも長嶋が普段からファンへ魅せることを前提に、練習をしていたからと言われ
ている。
しかも、ヘルメットがくるくる回って飛びやすいように、アメリカから楕円形のヘルメットを
取り寄せて愛用していたといわれている。
守備も華麗。普通の三塁手のポジションよりも1.5メートルほど後ろに守って、広い
守備範囲を持っていたためである。しかも、ここでも帽子を飛ばしてのスローイングなど。
平凡なゴロでも難しく見せていた。
ワザと遠い「ショートゴロ」になるものまでも捕りに行ってファインプレーに見せたりもして
いた。
そんな長嶋は、フライが大嫌い。理由は・・・見せ場がないから。何とも長嶋らしく、サード
フライもショートやピッチャーに捕らせていた。
野生の感でプレーするとも言われるが、数々の珍プレーも記録と記憶に残している。
1958年9月19日、巨人-広島戦で第3打席で鵜狩投手から右中間席へ見事な本塁打
を放った。しかし、ダイヤモンドを一周した後、ベンチに戻って次の打者が打席に入った
とき、ピッチャーから一塁手へ球が渡り、一塁塁審はアウトを宣告・・・。
実はこのとき、本塁打を放って一塁ベースを回る際、ベースより約10センチも離れた
ところを踏んでいたことが発覚。
一塁手が一塁塁審へアピールしたことにより、前代未聞のプレーが成立した。
記録はピッチャーゴロ。
この記録は、もちろんプロ野球史上、最初で最後の珍記録とされている。(公式戦では)
ちなみにこの年、打率.305、盗塁37、本塁打29本を記録。一塁ベースを踏み忘れて
いなければ、ルーキーイヤーに3割、30本、30盗塁のトリプルスリーというすさまじい
記録となっていたのだが。
珍プレーといえば、数々のグランド外でのエピソードも多い。
長男の一茂くんを後楽園に連れて行って、野球を観戦させた後に、試合が終わって
家に帰ると、亜希子夫人が「あなた、一茂は?」。長嶋は、「どっかに遊びにいったん
じゃないの!?」 としばらくすると、後楽園から電話が入る。「あのう、息子さんが・・・。」
そう、有名な子供を忘れた事件。
話をグランドに戻すと・・・
1960年6月25日、広島戦で長嶋は、ヒットを打って一塁に出る。次打者の国松は、レフト
へライナーを放った。
ヒットエンドランのサインが出ていたため、長嶋はスタートを切り、二塁ベースを大きく
回っていた。
が、打球はレフトに捕られたため、一塁に慌てて引き返した。しかし、戻っていくときに
二塁ベースを踏み忘れたため、ボールは二塁に送られアウト。
1964年5月21日、中日戦でも、王のレフトフライで帰塁の際に二塁ベースを踏み忘れて
アウト。
1968年5月16日、大洋戦でも、森のセンターフライで二塁ベースを踏み忘れて一塁へ戻り、
アウト。
有名な「三角ベース」(子供が狭い敷地内で2塁を抜かしてダイヤモンドを3角にしてやる
野球)を3回もやらかしている。
これだけの逸話を残す長嶋。もちろん成績も凄い。
公式戦での生涯打率は.305。(通算11位・2003年終了時)を記録。日本シリーズでも
.343。オールスターでも.313を記録。
全てに3割以上を記録しているのは長嶋だけで、お祭りに強い男だったことも証明している。
特に日本シリーズでは、4度のMVPに輝いている。
それだけのバッターであるが為に、長嶋は敬遠も多かった。それに対して奇想天外な
抗議を見せている。
1968年5月11日の中日戦、2死2塁で敬遠してきた山中巽投手に対して3球目から
バットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出たのだ。
球場内はどよめいた。しかし、絶対打つことができない長嶋を、山中はそのまま2球
ボールを続けて歩かせたのである。
ここでも魅せる野球?だった。
そんな長嶋も引退の時を迎える。
1974年10月14日。現役最後の雄姿を一目見ようとファンが殺到、後楽園球場は
超満員になった。
中日とのダブルヘッダー。長嶋は2試合にフル出場、第1試合に通算444号の本塁打1本
を含む3安打を放った。第2試合でも1安打。
改めて大舞台での勝負強さを思う存分見せつけるとともに、まだやれるのではという
惜しむ声ももちろん多かった。引退する長嶋を惜しんで絶叫するファンの数々。
そして、冒頭の引退挨拶。引退後も巨人の発展に、プロ野球の発展に力を尽くす決意
を述べた。
翌年から2001年まで2期15年の監督生活を送った長嶋。5回のリーグ優勝を果たすと
ともに、3回のBクラスと1回の最下位も記録。
2001年9月30日、東京ドームでの本拠地最終となる横浜戦終了後、監督勇退セレモニー
を行った。
既に巨人は、ヤクルトにわずかの差で優勝を逃すことが確実になっていた。そのため、
長嶋は、監督をコーチの原辰徳に譲り、翌日の甲子園での最終戦の指揮を最後に
勇退することに。
退任セレモニーでは、巨人ファンだけでなく、日本のプロ野球ファンすべてに対して
感謝の意を表した。
本日、観戦して頂きましたスタンドのファンの皆さま、全国のプロ野球ファンの皆さま、
2001年のペナントレース終了を持ちまして、巨人軍の監督を退任いたします。
もちろん、あすの甲子園での1試合を残してはおりますけど、本拠地で最後のゲーム
を滞りなく終了させていただき、惜しくも敗退はいたしましたけど、ファンの皆さんにも
納得していただけたと思います。
振り返り見ますと、93年、2度目の監督を拝命いただき、ジャイアンツファンの皆さまは
もとより、全国のファンの皆さま方の暖かいご支援、愛情あふれるご指導、ご鞭撻を
いただき、あらためて感謝申し上げる次第であります。
チームも60年余の数々の栄光を重ねてまいりましたが、来季からは若い世代の人たち
のパワーに託しまして、球団のさらなる発展と繁栄を期待しまして、若い指揮者・原新監督
にバトンを託すことにしました。
私は40数年も球界に身を投じ、もちろんファンの皆さん方から育てられ、さらに皆さまの
愛情あふれるご支援をいただきまして、今日まで邁進することができました。
しかし、我がチームはこれから若い指揮者のもとに一世紀に向けて邁進するチーム
でもあります。
原新監督のもとに、スタッフのみなさん、選手諸君、そしてそれを支えてくださる多くの
ファンの皆さま方の支援をさらに頂戴し、来年、再来年と、限りなくチームが一世紀に
向けて邁進することを一OBとして切なる思いで祈念しております。
ファンの皆様方、我が巨人軍を愛していただき、さらに球界の繁栄・発展のためにご支援
をいただければ幸いでございます。観客席の皆さん、全国のプロ野球ファンの皆さん、
本当にありがとうございました。
そして、「野球とは人生そのものだ」と語った長嶋。長い間、野球界を背負ってきた長嶋
の長嶋らしい言葉であった。
巨人は、監督を勇退した長嶋に対して「終身名誉監督」の称を与えた。
(2001年02月作成。2003年12月22日加筆掲載。2003年12月27日追加加筆。)
次回は王貞治元監督(現・福岡ダイエー監督)を予定。