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【特集】巨人 名選手列伝

このページでは、巨人の名選手・監督をご紹介しています。


■第1回「堀内恒夫第14代監督」
■第2回「川相昌弘内野手」
■第3回「長嶋茂雄終身名誉監督」
■第4回「王貞治第10代監督」
■第5回「藤田元司第9・11代監督」


第4回「王貞治第10代監督」

略歴 1959年 巨人入団。
1964年 シーズン55本塁打。
1980年 現役引退。
1984年 巨人監督。(-1988年)
1989年 評論家(-1994年)
1994年 野球殿堂入り。
1995年 福岡ソフトバンク監督。(-現在)

王貞治・成績一覧

高校時代は、早稲田実業で甲子園に4回出場したエース。
1959年に巨人に入団すると、初めてのキャンプで2週間は投打かけもちだったものも、
水原監督らに呼び出され、「明日からピッチャーをやらなくてよい」と言われた。
今思えば、この「決断」が後の「世界の王貞治」を生んだのである。

しかし、決して楽な道程ではなかった。
開幕から1軍スタートとなったが、長嶋茂雄と同様、国鉄の金田の前に3打席2三振1四球。
その後も26打席でノーヒット、当時はまだ有名な「一本足打法」ではなかった王は、
ただ豪快にバットを振り回すだけで三振の山を築いていた。
スタンドからは「三振王、三振王」とやじられたという。

初安打は、4月26日対国鉄戦で7回にカウント2ストライク1ボールと追いこまれながら、
村田投手から先制の2ラン本塁打。試合も2-0で勝ち、王の本塁打が決勝点となった。

ルーキーイヤーは、まるで駄目な成績であったが、ちゃっかり目立つところでは打っていて、
このあたりも後のスター性を見せている。

素質を認めながらも、なかなか開花しない王。
1962年に川上哲治監督は、打撃コーチとして荒川博を招聘、伸び悩む王の指導を任せた。
荒川と王は中学2年生の時に出会っていて、気が楽だったのか、王の野球人生を変えた。
元々、遠くにボールを飛ばす能力は高かったが、どうしても確立が悪く、タイミングの取り方が
うまくいかなかった。
試行錯誤のうえ、一本足打法にすることにより、ボールを前でとらえることが出来るようになり、
ボールを飛ばす能力を生かせるようになる。
ただ簡単に打っているようにみえるが、宿舎でも練習できるように両足の幅を畳1畳分に設定して
練習に明け暮れ、日本刀でわら斬りや合気道も行ったりして完成した苦労策。

一本足打法をものにした王貞治は、驚異的なペースで本塁打を量産。
特に1964年は、5月3日の対阪神戦で4打席連続本塁打。9月6日の大洋戦で、第1打席で鈴木隆投手から
52号本塁打を放って野村克也のシーズン本塁打記録に並ぶと、第3打席で、峰国安投手から
ライトスタンドに日本新記録となるシーズン53号本塁打を放った。
さらに9月23日の最終戦、対大洋戦で、5回裏にシーズン55号となる本塁打を佐々木吉郎から放っている。

王といえば、ホームラン。
その後も本塁打を積み上げると、1977年8月31日、メジャー記録を持つ、ハンク・アーロンの通算本塁打755号に
並ぶ本塁打を放つ。
そして迎えた9月3日対ヤクルト戦、日本中が期待する中、第1打席は四球。これには物凄い怒号だったらしい。
3回1死に周ってきた第2打席でカウント2-3から鈴木康二郎投手から投げた真ん中やや内角よりのシュートを
右翼席中段に叩きこんだ。(実はサインは「シンカー」だった。四球は駄目という中、落ちなかったのであろう。)
756号、新記録達成である。

三冠王2回、首位打者5回、本塁打王15回、打点王13回。他、数々のタイトルと記録・記憶を残した王だったが、
1980年、打率.236、本塁打30本、打点84を記録しながら、「自分のバッティングができなくなった」とその年限りで
惜しまれながら引退した。

野球や人に対する真摯な姿は、スポーツ選手の模範と賞賛され、国民栄誉賞も受賞。
引退後は巨人の監督、現在は福岡ダイエー(ソフトバンク)監督。
2006年に開催される野球国別対抗戦の日本代表監督に就任。


(2001年02月作成。2005年12月29日加筆掲載。)

次回は原監督を予定。