【NPB】選手異動球団一覧 2024-25年

プロ野球の人事異動情報を掲載
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このページでは、野球殿堂を紹介しています。
No. | 年度 | 氏名 | かな氏名 | 種別 | 顕彰文 |
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208 | 2021年 | 特別表彰 | 川島 勝司 | かわしま かつじ | 都市対抗3度優勝、アトランタ五輪代表監督 1967年日本楽器、1968年河合楽器(補強選手として)で都市対抗野球大会に出場し、2年連続優秀選手に選出。1972年に日本楽器の監督に就任すると、その年の都市対抗でチームを初優勝に導く。その後、1987年・1990年と都市対抗優勝を果たした。監督として3度の都市対抗優勝は史上最多。1988年ソウルオリンピック日本代表コーチを務め、1996年アトランタオリンピック日本代表監督として出場、銀メダルを獲得した。2000年にトヨタ自動車の監督、2003年に総監督に就任し、チームを社会人野球日本選手権で3度の優勝に導いた。日本野球連盟、全日本アマチュア野球連盟にて要職を務めるなど、アマチュア野球の競技力向上と指導者の育成に尽力した。 |
209 | 2021年 | 特別表彰 | 佐山 和夫 | さやま かずお | ノンフィクション作家、日本高野連顧問 野球史をわかりやすく伝えるノンフィクション作家。1984年、ニグロリーグの伝説の投手、サチェル・ペイジを描いた「史上最高の投手はだれか」、1993年には 「野球とクジラ」など日米の野球史に関する著書を多数著した。また、1998年には「伝説のレフティ・オドール」 の翻訳も行うなど、野球史の発信に大きく貢献した。1999年に日本高等学校野球連盟顧問に就任すると、2001年に設けられた「21世紀枠」の創設に関わるなど、高校野球の発展に寄与した。 |
210 | 2022年 | 競技者表彰 | 髙津 臣吾 | たかつ しんご | 日米通算313セーブを挙げた守護神 1990年ドラフト3位でヤクルトに入団。1993年から抑えに定着し、サイドスローの守護神として1993、1995、1997、2001年の日本一に貢献。2003年には、当時の通算最多セーブ記録を更新した。2004年にMLB・シカゴホワイトソックスに入団すると、同年19セーブを挙げる活躍を見せた。06年、ヤクルトに復帰し、日米通算300セーブを達成。以後、韓国、台湾、独立リーグなどでもプレーした。引退後は、2020年よりヤクルト監督を務め、2021年にはチームを20年ぶりの日本一へ導いた。 |
211 | 2022年 | 競技者表彰 | 山本 昌広 | やまもと まさひろ | 最年長勝利を挙げた、中日一筋32年の200勝投手 1983年ドラフト5位で入団。スクリューボールを武器に、1993年には17勝を挙げ最多勝利、最優秀防御率、最高勝率のタイトルを獲得。翌年も最多勝利を獲得し、沢村賞を受賞した。2006年には史上最年長(41歳1か月)でノーヒットノーランを達成するなど、リーグ優勝に貢献。2008年に通算200勝、2014年には史上最年長勝利(49歳0か月)を達成した。ドラゴンズ一筋32年の左腕投手で、引退表明後の最終登板にて、史上初めて50代での登板(50歳1か月)を記録した。 |
212 | 2022年 | 特別表彰 | 松前 重義 | まつまえ しげよし | 首都大学野球連盟を設立。野球の国際化にも尽力 1946年に旧制東海大学、1950年に新制東海大学を開校。1952年より理事長、学長、総長などを歴任。1951年武蔵野グリーンパーク球場を開設した。1964年東海大学をはじめとする7大学で首都大学野球連盟を設立し、初代会長に就任した。ソ連や東欧諸国との民間外交にも積極的に取り組み、モスクワ大学に松前記念スタジアムを寄贈するなど、野球の国際化に尽力した。日本学生野球協会副会長などの要職を歴任し、学生野球の発展に貢献した。 |
213 | 2023年 | 競技者表彰 | A.ラミレス | あれっくす らみれす | 2年連続でMVPに輝き、2,000安打も達成 2001年ヤクルトに入団。2003年に初めて本塁打と打点の二冠を獲得し、2007年には当時のリーグ新記録となる204安打を放った。2008年巨人に移籍し、同年のリーグ優勝、2009年の日本一に貢献し、連続してリーグMVPを受賞した。2012、2013年はDeNAでプレーし、海外出身選手として初の2,000安打を達成した。明るい人柄とパフォーマンスでも人気を集めた。引退後、2016年に監督としてDeNAに復帰。2017年にはクライマックスシリーズを勝ち抜き、チームを日本シリーズへと導いた。 |
214 | 2023年 | 競技者表彰 | R.バース | らんでぃ ばーす | 阪神優勝の立役者となった最強助っ人 1983年阪神に入団。1985年には猛打でチームをけん引し、打率.350、54本塁打、134打点で三冠王とMVPに輝く。日本シリーズでも3試合連続本塁打の活躍でチーム初の日本シリーズ制覇に貢献し、シリーズMVPを獲得した。翌1986年も7試合連続本塁打の日本タイ記録樹立など勢いは止まらず、打率.389、47本塁打、109打点で2年連続三冠王となった。この打率.389は、プロ野球のシーズン最高打率となっている。 |
215 | 2023年 | 特別表彰 | 古関 裕而 | こせき ゆうじ | 時代を超える多くの応援歌を作曲 1930年日本蓄音器商会に入社。1931年に早稲田大学の応援歌「紺碧の空」、「日米野球行進曲」を作曲し、スポーツに関する曲を作り始める。1936年に「大阪タイガースの歌」(通称:六甲おろし)を作曲。1948年には全国高等学校野球選手権大会歌「栄冠は君に輝く」の作曲を担当した。慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、「巨人軍の歌~闘魂こめて~」なども作曲し、それらの楽曲は現在も広く歌い継がれている。作曲家として音楽を通じ日本野球の隆盛に貢献した。 |
216 | 2024年 | 競技者表彰 | 谷繁 元信 | たにしげ もとのぶ | 横浜、中日で通算3,021試合出場の名捕手 1988年ドラフト1位で大洋に入団。投手の持ち味を引き出すリードで、1998年には横浜の38年ぶりの日本一に貢献した。2002年に中日へ移籍し、司令塔として4度のリーグ優勝、2007年には53年ぶりの日本一となったチームを支えた。2013年には通算2,000本安打を達成。実働27年で、日本記録となる通算3,021試合に出場。捕手として2,963試合出場は歴代1位。2014年から2年間は中日の選手兼任監督、2016年は監督としてチームを率いた。 |
217 | 2024年 | 競技者表彰 | 黒田 博樹 | くろだ ひろき | 日米通算200勝を挙げた広島のエース 1996年ドラフト2位で広島に入団。2003年から5年連続で開幕投手を務めるなどエースとしてチームを牽引し、2005年に最多勝、翌年には最優秀防御率を獲得した。2008年にドジャースに移籍、2012年からはヤンキースでプレー。安定してローテーションを守り、5年連続二桁勝利を記録するなど、MLB通算79勝をあげる。2015年に広島へ復帰すると、2016年には史上2人目となる日米通算200勝を達成。10勝をあげ、チームを25年ぶりのリーグ優勝に導いた。 |
218 | 2024年 | 特別表彰 | 谷村 友一 | たにむら ともいち | アマチュア審判員を経てプロでも活躍した名審判 同志社大学で主将を務め、卒業後、一般企業に勤めながら1952年都市対抗野球大会に京都クラブの二塁手として出場した。その後、高校野球、大学野球、社会人野球の審判員として活躍。1959年にセントラル・リーグの審判員となり、通算3,026試合に出場。日本シリーズには11回出場した。プロ・アマ審判員の模範となり、現役を退いた後も後進の育成に尽力した。 |
219 | 2025年 | 競技者表彰 | イチロー | いちろー | 1991年ドラフト4位でオリックスに入団。1994年に210安打を放ち、プロ野球史上初の200安打を達成。同年から2000年まで7年連続で首位打者を獲得した。マリナーズに移籍した2001年には、首位打者、最多安打、盗塁王、MVP、新人王を獲得。2004年、262安打でメジャーシーズン最多安打記録を樹立した。2016年には、日米通算でメジャ ー最多安打記録を上回るなど、日米通算 4,367安打を達 成した。2006、2009年にはWBC日本代表の主力としてチームを連覇に導いた。 |
220 | 2025年 | 競技者表彰 | 岩瀬 仁紀 | いわせ ひとき | NTT東海から1998年ドラフト2位で中日に入団。1年目にリリーフながら2桁勝利をあげるなど活躍し、最優秀中継ぎ投手を3回獲得する。抑え投手となった2004年から2014年まで、11年連続で20セーブ以上をあげ、最多セーブを5回獲得し た。スライダーを武器にドラゴンズの守護神として5度のリーグ優勝、2007年の日本一に貢献。1002登板、407セーブは日本記録。 |
221 | 2025年 | 競技者表彰 | 掛布 雅之 | かけふ まさゆき | 1973年ドラフト6位で阪神に入団。3年目の 1976年に三塁手のレギュラーとなり、打率.325で初のベストナインを受賞する。1979年は 48本で初の本塁打王となり、1982年には、35本塁打、95打点で本塁打と打点の二冠を獲得した。1985年のチーム初の日本シリーズ制覇にも貢献。“ミスター・タ イガース”と呼ばれ、阪神の4番打者としてチームをけん引した。 |
222 | 2025年 | 特別表彰 | 富澤 宏哉 | とみざわ ひろや | 1955年にセントラル・リーグ審判員となり 1972年に米国のアル・ソマーズ審判学校に自費留学。最新の審判技術を日本に採り入れた。1980年にセントラル・リーグ審判部長に就任し、審判員の米国への留学制度を確立した。在籍35年間で歴代2位の通算3,775試合に出場。現役を退いた後は、野球規則委員に就任。全日本野球会議審判技術委員会委員や全日本軟式野球連盟顧問(審判技術担当)を務めるなどプロ・アマの審判技術向上に貢献した。 |
作成・2009/12/01
更新・2024/01/18